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NHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」がクライマックスを迎えつつある。主人公の渋沢栄一が最晩年に取り組んだ民間外交の一つが、親善を深めようと昭和初期に日米で人形を贈り合った「青い目の人形」交流だ。渋沢はこの事業に何を願ったのか。文献と関係者の話からひもときたい。【菅野蘭/デジタル報道センター】
関係改善へ「平和の使」
<平和を象徴する日本のお雛(ひな)さまに並んで 小さいアメリカの平和の使(つかい)は 青い眼(め)を満場にかがやかせる(中略)意義深い歓迎会は万歳の裡(うち)に幕を閉ぢた>
1927(昭和2)年3月3日。米国から届いた青い目の人形の歓迎式典が、桃の節句に合わせて東京・明治神宮外苑日本青年館で開かれた。
当時の東京日日新聞(現毎日新聞)は翌日の夕刊で、式典の様子をこう伝えている。日米の国旗とひな壇の飾りを前に、東京駐在の米国領事の娘が日本代表の少女に人形を手渡す写真も大きく掲載した。
式典には86歳の渋沢も出席した。記事によると、渋沢は「(米国)大使は謙遜して御自身はサンタクロスではないといはれるが 私は年もとつたしサンタクロスそつくりの姿であるから 大使に代わつてこの貴い意義あるお人形さんを日本の少女に配りませう」とニコニコ顔で述べたという。
この事業で、約1万3000体もの人形が米国から贈られた。<青い眼をしたお人形(にんぎょ)は アメリカ生まれのセルロイド――>。21年に野口雨情が発表した童謡「青い眼の人形」にちなんで人気を呼び、日本各地の学校に届けられた。日本からもお返しに58体の市松人形が米国に贈られ「答礼人形」と呼ばれた。
東京・浅草橋の人形店「吉徳」は、答礼人形の制作に携わった老舗だ。吉徳の顧問で、今も答礼人形の修繕のとりまとめを担う青木勝さん(72)によると、同店の主人だった10代目山田徳兵衛が人形師たちに呼びかけ、東京では当時100体近くの市松人形を制作した。高さが80センチ近くある人形は、実際の子供のように下着から着物まで着付けてあるという。
だが当時、式典の盛り上がりとは裏腹に、日米関係は悪化の一途をたどっていた。…
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