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阪神大震災

1995年1月17日に発生した阪神大震災。戦後初の大都市直下型地震が残した教訓・課題は今――。

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「先生と呼ばないで」 識字教室を開いた女性が貫いた学び合い

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識字教室「ひまわりの会」で読み書きを教える桂光子さん=神戸市長田区で2016年1月16日、大西岳彦撮影 拡大
識字教室「ひまわりの会」で読み書きを教える桂光子さん=神戸市長田区で2016年1月16日、大西岳彦撮影

 「先生」と呼ばれるのを嫌がる人だった。1995年1月17日に起きた阪神大震災の後、字の読み書きができない被災者のために識字教室を開いた桂光子さん。2021年、新型コロナウイルス感染症により85歳で亡くなった。教室に通う人と対等の目線で互いに学び合おうとする精神は、死後も学び舎(や)に受け継がれている。

「被災者の生きがいづくりに」と決意

 桂さんは、神戸市長田区の夜間中学の元教員。震災前から、戦争や貧困により学校に通えなかった高齢者らに読み書きを教えていた。そして震災後、こうした読み書きのできない被災者の存在がクローズアップされる。避難所の生活情報が理解できなかったり、罹災(りさい)証明書をはじめとする行政手続きで困ったりしたためだ。

 勤務先の夜間中学が全壊した桂さんは、高齢者の訪問活動などをしていたNGO「曹洞宗国際ボランティア会」(現シャンティ国際ボランティア会)と協力。震災翌年の96年9月に長田区の寺で識字教室「ひまわりの会」を始めた。読み書きの問題を解消するとともに、「被災者の生きがいの場をつくりたい」との願いも実現したかったからだ。

互いに学び合う姿勢を大切に

 教室には、高齢者や在日コリアンらが最大で約50人通った。桂さんは教壇で「授業ではない」と繰り返し、「先生」と呼ばれるのを嫌った。自身も集まった生徒を「学習者」と呼んだ。夜間中学の教諭で、ひまわりの会で読み書きも教える井口(いのくち)幸治さん(51)は「文字がないからこそ見える世界や、豊富な人生経験など『学習者』から多くのことを教えてもらっている」と話す桂さんの姿が印象に残っている。知識を授けるのではなく、互いに学び合う姿勢を貫いていたという。

 四半世紀にわたってほとんど欠かさず教室に参加していた桂さんに転機が訪れる。20年4月、転倒事故で半年近く入院した。21年4月には、通っていたデイサービス施設で新型コロナのクラスター(感染者集団)が発生した。2、3日間は熱もなく自宅待機をしていたが、その後に体調が急変。救急車が呼ばれ、病院に搬送されることになった。だが、桂さんが住む神戸市は当時、新型コロナの感染拡大で医療体制が逼迫(ひっぱく)していた時期だ。救急隊が市内外の病院に受け入れを要請するが、20回以上も断られた。搬送中にPCR検査で陽性と判明し、入院できたのは半日ほどたった深夜だった。

 入院後も体調は回復せず、5月1日に亡くなった。コロナ禍の後、教室に姿を見せることは一度もかなわなかった。夫の正孝さん(84)も感染し、長年連れ添った妻と最期の別れもできなかった。火葬後にお骨を自宅で受け取るだけで、「亡くなった実感がなく、消えてしまったようだ」と心情を明かす。

桂光子さんをしのぶ夫正孝さん(左)と「ひまわりの会」の井口幸治さん=神戸市灘区で2022年1月8日午後2時40分、宮本翔平撮影 拡大
桂光子さんをしのぶ夫正孝さん(左)と「ひまわりの会」の井口幸治さん=神戸市灘区で2022年1月8日午後2時40分、宮本翔平撮影

受け継がれていく精神

 今、桂さんの人柄を多くの人がしのぶ。桂さんがどんなに断っても、教室に通う人たちは「先生」と呼んで慕った。会社員の諏訪田春夫さん(63)=神戸市=もその一人。教室に通う前は「読み書きが苦手なことが恥ずかしく、人に聞くこともできなかった」といい、「桂先生は何でも相談に乗ってくれる親代わりの人。僕の心の鍵をこじ開けてくれた。先生がいなければ、堂々と生きられる今の自分はなかった」と語る。

 新型コロナの感染拡大でひまわりの会も休んだ時期があったが、今は活動を再開している。毎週水、土曜に開かれ、70~80代を中心に20人ほどが学びを続ける。井口さんは「桂先生が大事にしたことをこれからも大切に、学習者と一緒にひまわりの会をつくっていきたい」と気持ちを強くしている。【宮本翔平】

【阪神大震災】

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