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阪神大震災

1995年1月17日に発生した阪神大震災。戦後初の大都市直下型地震が残した教訓・課題は今――。

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譲ったアパートで妹が下敷きに 「なぜ勧めた」悔やみ続けた兄の変化

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阪神大震災で亡くなった坂本時子さん=坂本博司さん提供 拡大
阪神大震災で亡くなった坂本時子さん=坂本博司さん提供

 最愛の妹は、かつて自分が住んでいた木造アパートで下敷きになった。坂本博司さん(60)は「自分が住み続けていればよかった」と後悔し、記憶に蓋(ふた)をし続けてきた。阪神大震災から27年。月日がたち、妹の死を受け入れられるようになった今、自らの変化も自覚しつつある。

 「きょうだいとは連絡を取り合うくらいだけど、みんな元気やで。俺は引っ越して、1月17日はこっちに来られなそうやけど、許してな」。2021年12月末、東遊園地(神戸市中央区)の「慰霊と復興のモニュメント」。坂本さんは、犠牲者の名が刻まれた銘板に向かって語り掛けた。妹時子さん(当時29歳)の名を指でなぞりながら。

 坂本さんは5人きょうだいの真ん中。思春期に両親とけんかが絶えず、中学生の頃から「一刻も早く家を出たい」とアルバイトに明け暮れた。一方、家を空けがちだった両親らに代わり、4歳下の時子さんら2人の妹の面倒を見ることも多かった。絵が得意で、時子さんが図画工作の宿題を持ち帰ると絵筆を握ってアドバイスした。時子さんは「ひろちゃん」と兄を慕い、坂本さんも明るく優しい妹を可愛がった。

 高校卒業後、坂本さんは仕事を転々とするようになり、家族とは疎遠気味に。時子さんは短大を卒業後、保育士として数年間働き、20代半ばで結婚した。両親が所有し、神戸市東灘区にある木造2階建てのアパートで新婚生活を始めた。

幼子と犠牲になった妹

 1995年1月17日、坂本さんは地響きの音で目を覚ます。当時住んでいたのは、両親が所有する東灘区の別のマンション1階。2階には両親も住んでいたが、鉄筋コンクリート造りだったこともあり、全員無事だった。時子さんのアパートはそこから100メートルほど。様子を見に行くと、外観は原形をとどめているように見えた。だが、高さが異様に低い。時子さんの部屋がある1階を、2階部分が押し潰していた。

妹とおいの名前が刻まれた銘板に触れる坂本博司さん=神戸市中央区で2021年12月28日、梅田麻衣子撮影 拡大
妹とおいの名前が刻まれた銘板に触れる坂本博司さん=神戸市中央区で2021年12月28日、梅田麻衣子撮影

 血の気が引いた。「時子が寝ていたのは、きっとこのあたりだ」。余震がやまないなか、必死でがれきをどけた。隙間(すきま)から身をよじって中に入り、暗がりに布団があるのを見つける。外に引っ張り出すと、時子さんが横たわっていた。体はまだ温かく、「助かるのでは」と希望を持ったが、搬送先の病院で死亡が確認された。時子さんの体の下からは、幼児の遺体も見つかった。長男の光一ちゃん(当時1歳)だった。

 その後、親戚から「時子さんは離婚して、光一ちゃんと2人で暮らしていた」と聞かされた。時子さんが住んでいたのは、91年ごろまで自分が住んでいた部屋だ。広島に一時引っ越すことになり、結婚して家を探していた妹に「部屋数が多い」と譲ったものだった。坂本さんが神戸に戻ったのは数年後。「普段から家族と会って時子の離婚を知っていれば、『部屋数は減るけど、両親がそばにいるマンションの方が安心だよ』とすすめられた。俺がアパートに戻っていれば……」。罪悪感と悲しみにさいなまれた。阪神大震災の話題は、その思いを呼び覚ます。避けているうちに年月が過ぎた。

20年経て震災と向き合う

 15年1月17日、震災から20年の節目に東遊園地を初めて訪れた。「時子の存在が無くなっていくみたいだ。そろそろ、死を受け止めなければ」と考えたからだ。モニュメントで時子さんの名前を見つけた瞬間、あの日の記憶がよみがえり、涙があふれ出した。「ごめんな。20年もかかっちまった。時子の代わりに俺が頑張らなあかんな」

 以来、1月17日は出張と重ならない限り、東遊園地を訪れている。震災と向き合うようになると、ふとした時に「時子ならどうするかな」と自問するようになった。いつしか、傷ついた人の気持ちを真っ先に思いやりたいと思うようになった。21年11月からはエンジニアとして宮城県石巻市で働く。東日本大震災で甚大な被害を受けた地だ。「何かあれば、少しでも役に立ちたい」と誓っている。

亡くなった妹が住んでいた木造アパートがあった場所の近くで当時の様子を語る坂本博司さん=神戸市東灘区で2021年12月28日、梅田麻衣子撮影 拡大
亡くなった妹が住んでいた木造アパートがあった場所の近くで当時の様子を語る坂本博司さん=神戸市東灘区で2021年12月28日、梅田麻衣子撮影

 時子さんの優しい表情、人を包み込むような温かみ――。27年の月日は、鮮やかな記憶を薄れさせていく。「でも、悲しみを丸ごと抱えたままでは、人は生きていけない。人の『記憶』が、月日を経て震災の『記録』になってしまうのも、いいのかな」。心の中で時子さんが生き続けているからこそ、坂本さんはそう思っている。【添島香苗】

【阪神大震災】

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