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東日本大震災

2011年3月11日に発生した東日本大震災。復興の様子や課題、人々の移ろいを取り上げます。

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「奇跡の少年じゃない」生き残った重圧 広島で気づいた言葉の力

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仲間らと再び歩み出した只野哲也さん。大川小の校歌「未来をひらく」を胸に刻む=宮城県石巻市の震災遺構・大川小で2022年3月9日、和田大典撮影
仲間らと再び歩み出した只野哲也さん。大川小の校歌「未来をひらく」を胸に刻む=宮城県石巻市の震災遺構・大川小で2022年3月9日、和田大典撮影

 「奇跡の少年」と呼ばれるのが嫌だった。それをこらえて生きてきた。

 あの日、津波にのまれながらも助かった小学5年生は、スーツ姿が似合う青年に成長した。宮城県石巻市で2月13日に開かれた集会で、只野哲也さん(22)は3人の仲間と共にマイクを握り、今後の大川小学校の在り方や古里の発展を考える「Team大川未来を拓(ひら)くネットワーク」の設立を宣言した。

 東日本大震災で北上川の近くにあった大川小は津波に襲われ、児童74人が犠牲になった。その場にいて助かった児童は只野さんら4人だけだった。

 生き延びた児童の中で只野さんはただ一人、震災直後から報道機関の取材に応じてきた。髪の毛を短く刈り込んだくりくり頭や、明るい性格を思わせる言動から「てっちゃん」が愛称で、周囲からかわいがられた。だが、2年ほど前からは取材を避けるようになっていた。「俺なんかより優秀な友達が津波にのまれ、自分は偶然助かっただけ。『奇跡の少年』でも、そんな立派な人間でもない……」。内面にはこれまでため込んできた反発があった。

「涙も出なかった」 被災後の心の動き

 2011年3月11日、只野さんたち児童や教員らは校庭に集まり、橋のたもとへ避難しようとした時に津波に襲われた。列の先頭付近にいた只野さんは、民家が砕け散るのを見て引き返し、校庭脇の山の斜面にたどり着いたところで強い波に押し上げられ、意識を失った。児童108人のうち無事だったのは親が迎えに来たり欠席したりした子らを含む34人だった。

 只野さんは、小学3年生だった妹の未捺(みな)さん(当時9歳)、母のしろえさん(同41歳)、祖父の弘さん(同67歳)を亡くし、自宅も流された。直後に取材を受け、見たままを証言したが「突然家族がいなくなったことが信じられず、涙も出なかった。どこかテレビの向こうの出来事だった」。

 一方、遺族たちは悲しみを共有しながらも、置かれた状況で立場の違いが生まれた。子ども全員を亡くした親、行方不明の子を捜し続ける親……。避難経緯の検証を求める人や、そっとしてほしいと願う人もいた。只野さんたちは「笑ってもいいのかな」と大人に気を使いながら過ごしてきた。

 感情を封印したかのような子どもたちの姿を見てきた保護者らの心配は募った。専門的な支援が必要と判断し、元教師で心理カウンセラーの佐藤秀明さん(65)や保育心理士の別所英恵さん(45)らが学習支援を通じ心のケアに当たる「ここねっと発達支援センター緊急こどもサポートチーム」(仙台市)に依頼した。

 地域の公民館や仮設住宅の集会所でサポートチームが「勉強会」を開くと、きょうだいを失うなどした小、中学生13人が集まった。最年少は只野さんだった。

 外では元気そうに見えた只野さんだが、勉強会では寡黙だった。「家では植物と話している」と、別所さんらの前でこぼしたこともある。ようやく少しずつ話せるようになると「証言するのは、津波にのまれた瞬間を思い出して苦しい。でも亡くなった友達のためにも二度と繰り返してほしくないから話すんだ」と明かした。

 小さな胸に抱えた苦悩は、周囲にはなかなか伝わらなかった。小学校では同級生に「取材は得意だもんね」とちゃかされたことが、冗談と分かっていても気になった。「遺族から『目立ちたがり』と言われているよ」と人づてに聞かされた。ショックだった。

 苦しんでいたけれど、石巻市教育委員会や第三者検証委員会から避難時の証言を求められると応じてきた。正直、数少ない生存者として自分が語る言葉の重みを考えると怖かった。自分の証言を巡って議論になった際、「子どもの記憶は変わる」と言われたことに傷付き「自分が間違っているのか」と不安に押しつぶされそうになった。

取材に応える自分への違和感

 心の重荷を下ろせるようになったのは、こどもサポートチームのメンバーとの何気ない触れ合いだった。大川小校舎の保存・解体を巡る議論では、成果につながる行動も起こせた。

 只野さんは中学2年だった13年、東京で開かれた集会で「みんながここで生きていた証し」と校舎の保存を訴えた。賛同するメンバーたちと共に、後に「チーム大川」と名乗り、仙台や東京などで保存への思いを語ると、少しずつ共感が広がった。

 保存か解体か。15年、地域の意見を集約する住民集会が開かれることになった。実は「チーム大川」は地元で発言するのを避けていた。「亡くなった友達の親の前では話せない」というのが理由だった。でも、震災当時は中学2年で、この時は高校3年だった佐藤そのみさん(25)が「みんなが思っていることは伝えたほうがいい」と声を上げた。迷っていたメンバーも涙を浮かべ、参加を決めた。

 住民集会の当日。「校舎はどんな文章や映像よりも強い印象を与えます。なくなれば友達や地域の人が生きた記憶が薄れ、本当の意味で死んでしまう」。只野さんは訴えた。多数決で保存を望む意見が上回り、石巻市が保存を決定する際の決め手となった。

 「チーム大川」の訴えは届いた。だが、メンバーの卒業や進学で活動は事実上休止に。この頃からだろうか、只野さんは取材に応える自分の姿への違和感が強くなっていった。

プレッシャーは頂点に

 大川小学校に向かう道のりが、いつしか只野哲也さん(22)には苦痛になっていた。毎年の「3月11日」。その日が近づくと「奇跡の少年」として、メディアからコメントを求められるからだ。理想の答えを想像し「昨年とは違うことを言わなければいけない」と、自分を追い込んだ。

 「友達の分まで頑張って生きる」「未来の命を守りたい」。確かにそう思っている。それでも亡くなった家族や友人の思いを背負い、強く生きていく「奇跡の少年像」が独り歩きしているように感じ、演じようとする自分が嫌だった。

 プライベートの変化…

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