- ツイート
- みんなのツイートを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷

渋沢栄一は91歳で亡くなるまで東京市養育院長の職責を全うし、明治から昭和初期までの日本の福祉をリードした。
◇
「商工業を発達させ、国富を増進させたい」と考えていた栄一は33歳だった1873(明治6)年、大蔵省を退官し、未発達だった実業界に身を投じた。渋沢史料館(東京都北区)の井上潤館長は「当初は経済最優先だったが、経済発展とともに都市部に生活困窮者があふれ、養育院の収容者数が増えてくる。そこで渋沢はジレンマに陥った」と指摘する。「経済政策だけの推進で社会の発展は望めず、資本主義社会における利益追求の中に必ず負の部分が生み出されるという構造を自分で察知した」
その結果、栄一は経済発展と同時並行で福祉事業を進めないと理想とする世の中にはならず、仮にいったんは豊かな社会ができても永続しないと考えたという。「まさに今の『持続可能な社会』につながる。表現は違うが、現在の日本社会が新たに目指そうとしていることを既に明治初期から手がけていた」と井上館長は強調する。
この記事は有料記事です。
残り1817文字(全文2254文字)