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渋沢栄一を歩く

「日本資本主義の父」と呼ばれ渋沢栄一の生涯を、生まれ故郷・埼玉県深谷市を中心とした取材からたどります。

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渋沢栄一を歩く

/43止 合本主義 世界で再評価の流れ /埼玉

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栄一の没後90年の命日にあたる2021年11月11日、JR深谷駅前の青淵広場で「渋沢栄一翁銅像」に献花する人たち=埼玉県深谷市で2021年11月11日、中山信撮影
栄一の没後90年の命日にあたる2021年11月11日、JR深谷駅前の青淵広場で「渋沢栄一翁銅像」に献花する人たち=埼玉県深谷市で2021年11月11日、中山信撮影

 渋沢栄一は91歳で亡くなるまで東京市養育院長の職責を全うし、明治から昭和初期までの日本の福祉をリードした。

     ◇

 「商工業を発達させ、国富を増進させたい」と考えていた栄一は33歳だった1873(明治6)年、大蔵省を退官し、未発達だった実業界に身を投じた。渋沢史料館(東京都北区)の井上潤館長は「当初は経済最優先だったが、経済発展とともに都市部に生活困窮者があふれ、養育院の収容者数が増えてくる。そこで渋沢はジレンマに陥った」と指摘する。「経済政策だけの推進で社会の発展は望めず、資本主義社会における利益追求の中に必ず負の部分が生み出されるという構造を自分で察知した」

 その結果、栄一は経済発展と同時並行で福祉事業を進めないと理想とする世の中にはならず、仮にいったんは豊かな社会ができても永続しないと考えたという。「まさに今の『持続可能な社会』につながる。表現は違うが、現在の日本社会が新たに目指そうとしていることを既に明治初期から手がけていた」と井上館長は強調する。

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