特集

沖縄復帰50年

2022年5月15日、沖縄は本土に復帰して50年を迎えました。何が変わり、何が変わっていないのか。沖縄の歩みと「今」を伝えます。

特集一覧

私たちは沖縄の底辺…父の血恨んだ 「アメリカーと呼ばれて」/上

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
唯一残っていた父の写真を、女性はスマートフォンに保存している=沖縄県で2022年2月9日、喜屋武真之介撮影
唯一残っていた父の写真を、女性はスマートフォンに保存している=沖縄県で2022年2月9日、喜屋武真之介撮影

 沖縄本島南部で暮らす50代の女性の記憶に、50年前の1972年5月15日の出来事が深く刻まれている。【喜屋武真之介】

米兵のやったこと、全部返ってきた

 その日、沖縄は戦後27年間の米国統治を脱し、日本本土に復帰した。女性が通っていた小学校の教室では教諭が児童たちの席を回って、紅白まんじゅうと記念メダルを配った。「あなたには関係ないよね」。教諭はそう言って女性の席を通り過ぎた。「なんで?」。当時はぼうぜんとするばかりだったが、後に気付いた。自分の父が米軍の兵士だったからだ、と。

 太平洋戦争末期の地上戦で沖縄を占領した米軍は小さな島の至る所に基地を建設した。52年に日本が主権を回復した後も、72年の本土復帰まで米軍の施政権下に置かれた沖縄。圧政に抵抗して「異民族支配」からの脱却を求める人々がいた一方で、生きていくために基地従業員として働く人たちや、米兵を客に飲食などを提供する人たちがいた。そして米軍関係者と沖縄の女性の間に多くの子供たちが生まれていった。

 その女性が育った地域は周辺に米軍基地がなく、同じ境遇の子供はほとんどいなかった。赤みがかった髪と白い肌。嫌でも目立ち、他の子供たちから、からかわれたり、蹴られたりするのは日常茶飯事だった。授業が終わると、すぐに家へと向かった。「午後になると、逃げ帰ることばかり考え、落ち着かなかった」

 母の妊娠後、父は戦場に行き、そのまま沖縄には戻ってこなかった。中学生の頃、母と買い物に行った市場で、「アメリカー(アメリカ人)はけぇれ(帰れ)!」とののしられ、逃げるように引き返したことがある。その市場で働いていた女性が米兵の飲酒運転で亡くなったこと、その女性が知り合いの母親だったことを知ったのは、しばらくしてからのことだった。「アメリカーの血を恨んだよ」

 母には「あんたは少しでも悪いことをすれば、すぐばれるんだよ」と言われて育ち、隠れるように過ごしてきた。目立たないように髪を黒く染めたこともある。「沖縄で米兵の立場は強い。でも、米兵のやったことは、全部私たちに返ってきた。私たちは沖縄で一番弱い、底辺の存在だった」

 女性は、唯一残っていた父の写真をスマートフォンに保存している。父は7年ほど前に亡くなったと聞いた。つらいことが多かった人生。それでもこう語った。「何で迎えに来なかったのかと思ったこともある。でもこの人がいたから私が生まれた。家族もいて今は幸せ」

「真ん中にいて、関わらない」

 県民の4人に1人が亡くなったとされる太平洋戦争末期の地上戦の末、戦後は27年間にわたって米軍に支配された沖縄。地元女性と米兵との間に生まれた子供たちは「アメリカー」などと呼ばれ、さまざまな差別や偏見を経験してきた。

 沖縄市の内間栄治さん(74)の母は米軍基地内にあった飲食店の従業員だった。交際…

この記事は有料記事です。

残り1397文字(全文2568文字)

【沖縄復帰50年】

時系列で見る

関連記事

あわせて読みたい

マイページでフォローする

この記事の特集・連載
すべて見る
この記事の筆者
すべて見る

ニュース特集