特集

ウクライナ侵攻

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年。長期化する戦闘、大きく変化した国際社会の行方は……。

特集一覧

引き裂かれた友情 75年前に重なる露侵攻 ビザなし交流停止/上

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
1992年5月の初のビザなし交流で、択捉島紗那の高台で記念写真に納まる日本側訪問団。写真に写る元島民12人のうち生存者は得能宏(左から2人目)を含めて3人となっている=本人提供
1992年5月の初のビザなし交流で、択捉島紗那の高台で記念写真に納まる日本側訪問団。写真に写る元島民12人のうち生存者は得能宏(左から2人目)を含めて3人となっている=本人提供

 友情をも引き裂く、あまりにも不条理な決定だ。ロシアはウクライナへの軍事侵攻に絡み、日本との平和条約締結交渉を中断し、日本人が北方領土を訪問する「ビザなし交流」も停止した。このロシアの一方的な通告は、色丹(しこたん)島出身の得能宏(88)=北海道根室市=とロシア島民のイーゴリ・トマソン(56)が長年にわたり築いてきた友情にも暗い影を落とした。約30年間、得能を取材してきた記者が、2人の奇跡の歩みと突然の悲劇を2回にわたり緊急連載する。(敬称略)【本間浩昭】

引き揚げ船降り「娘が死んでいます」

 ロシアの侵攻を受けるウクライナで、母親に抱かれた幼子が無言で涙を流し、深く掘られた穴に死者が投げ込まれて葬られる――。

 得能は報道を目の当たりにして、どうしようもなく目が潤む。当時13歳だった自分が、生まれ育った島から強制送還させられた75年前の体験と重なるからだ。

 色丹島を追われた得能一家6人は1947年秋、樺太(現ロシア・サハリン)経由で引き揚げて来た。引き揚げ船「高倉山丸」が同年11月23日、函館港に接岸した。下船のためタラップを下りる際、姉の国子(故人)は、おぶっていた2歳の貞子を背中から下ろし、係員にこう告げた。「娘が死んでいます」

この記事は有料記事です。

残り1536文字(全文2058文字)

【ウクライナ侵攻】

時系列で見る

関連記事

あわせて読みたい

マイページでフォローする

この記事の特集・連載
すべて見る
この記事の筆者
すべて見る

ニュース特集