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池袋暴走事故は、東京・池袋で2019年4月、暴走した乗用車に松永真菜さん(当時31歳)と長女莉子ちゃん(当時3歳)がはねられ死亡し、9人が負傷した事故である。車を運転していた旧通産省の元幹部が自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の罪に問われ、有罪判決を受けた。元幹部は逮捕されず、「上級国民」という単語がネット上で注目を集めた。
事故概要

事件名 | 池袋暴走事故 |
発生日時 | 2019年4月19日午後0時23分ごろ |
場所 | 東京都豊島区東池袋4の都道交差点 |
被害者 | 主婦の松永真菜さん(当時31歳)と長女莉子ちゃん(同3歳) |
容疑者 | 飯塚幸三・旧通産省工業技術院元院長(同87歳) |
原因 | アクセルとブレーキの踏み間違え |
判決 | 禁錮5年(求刑・禁錮7年) |
影響 | 道交法が改正され、高齢ドライバーの安全対策が強化された |

2019年4月19日、東京都豊島区の交差点で、旧通産省(現在の経済産業省)工業技術院の飯塚幸三元院長が運転する乗用車が暴走。自転車で横断歩道を渡っていた松永真菜さん(当時31歳)と長女莉子ちゃん(同3歳)が死亡し、男女9人が重軽傷を負った。飯塚元院長が当時87歳だったことから、高齢ドライバーの事故対策の必要性が改めてクローズアップされ、翌20年6月の道路交通法改正につながった。
一方で、飯塚元院長が逮捕されずに在宅で捜査が進められたことに対し、インターネット上では「元官僚だったから優遇されたのでは」との臆測や疑問の声が相次いだ。ネット交流サービス(SNS)では「上級国民」という単語がトレンドに上がり、元院長への過度なバッシングとして問題になった。飯塚元院長は21年9月に禁錮5年の判決が確定し、現在は刑務所で服役している。
容疑者逮捕せず

事故を起こした元院長は、自身も胸の骨を折るなどの重傷を負い、約1カ月間入院した。このため、警視庁は「逃亡や証拠隠滅の恐れがない」として逮捕せず、退院後も在宅で捜査を継続。事故から約7カ月後の2019年11月12日、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の疑いで書類送検した。
逮捕を見送った警視庁の判断に、ネット上では「なぜ運転手が逮捕されないのか」などと疑問の声が相次いだ。「元官僚だったからでは」「“上級国民”として特別扱いを受けている」といった臆測も広がった。飯塚元院長は東大工学部を卒業し、1953年に旧通産省に入省。その後、旧通産省の外局の工業技術院に移り、89年に退職した。
刑事訴訟法などでは、罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があり、証拠を隠したり逃亡したりする恐れがある場合に容疑者を逮捕できると定めている。池袋の事故では、飯塚元院長が事故を起こしたことは明らかで、逮捕できる「相当な理由」はあった。
しかし、事故後に入院したことから逃亡の恐れはなくなり、警視庁は「逮捕に必要な条件を満たさなくなった」と判断したとみられる。警視庁から書類を送られた東京地検は20年2月6日、飯塚元院長を同法違反で在宅起訴した。
裁判で被告は無罪主張
裁判は2020年10月から東京地裁で始まった。飯塚元院長は無罪を主張し、検察側と全面的に争うこととなった。
検察側は、飯塚元院長が時速60キロで車を運転中、車線変更の際にブレーキと間違えてアクセルを踏み、時速96キロで交差点に進入したと指摘。①車の記録装置にはアクセルペダルを踏み込んだデータが残っていた②何らかの異常が起きた場合は電気系統で加速が制御される仕組みだった――などとし、運転ミスが原因で事故が起きたと述べた。
また、検察側は飯塚元院長が10年以降に物損事故を5回起こし、18年からはつえを使うようになったことも明らかにした。
一方、飯塚元院長は「車の何らかの異常で暴走した」と主張した。弁護側は、元院長は健康で「運転に差し障る身体障害もなかった」と強調。現場の手前で車線変更をした際、アクセルを踏んでいないのに車が加速し、道路脇の縁石にぶつかったと述べた。
パニックになった飯塚元院長は足元を目視しつつ、ブレーキを何度か踏んだものの、車は減速しなかったとしたうえで、車の電子部品の経年劣化が事故原因だった可能性があると主張した。

東京地裁は21年9月2日、飯塚元院長に禁錮5年(求刑・禁錮7年)の判決を言い渡した。下津健司裁判長は、アクセルとブレーキの踏み間違えが事故原因と認定し、「過失は重大。(飯塚元院長の)説明は信用できず、深い反省の念を有しているとは言えない」と非難した。
判決は、車に残されたデータや目撃証言などから、①事故直前からブレーキが踏まれずアクセルが最大限に踏み込まれていた②約10秒間アクセルを踏み続けて交差点に入り、次々と歩行者や他の車に衝突した――と認定した。
一方で、飯塚元院長が社会から厳しく非難され、脅迫状が届くなど過度な社会的制裁を受けたことを情状酌量の理由に挙げた。公判で弁護側は、ツイッターなどのSNSに非難の書き込みがあふれ、自宅に押しかけて何度もインターホンを鳴らす人がいたなどと訴えていた。
検察側が求刑した禁錮7年は過失致死傷の上限だったが、判決が同5年となったのは、こうした事情も考慮されたとみられる。検察、弁護側双方とも控訴しなかったことから、9月17日に刑が確定した。
データベース記事から |
娘の名前、書けぬ被告
裁判では、真菜さんの夫で会社員の拓也さんが「被害者参加制度」を使って飯塚元院長に直接質問した。この制度は、一定の犯罪の被害者などが、刑事裁判に直接参加することができる仕組みだ。
2021年6月21日の第8回公判。拓也さんは、周囲の車のドライブレコーダーの映像と、飯塚元院長の法廷での説明には矛盾があると追及。「ブレーキを踏んだら少なくとも加速することはないのでは」と問いただした。
これに対し、飯塚元院長は「自分の記憶では、ブレーキを踏んだのにますます加速した。車の電子系統に不具合が起こることは時々ある」などと主張した。
拓也さんが「妻と娘の名前を言えますか」「名前を漢字で書けますか」と質問する場面もあった。飯塚元院長は、2人の名前と「真菜さん」の漢字については答えたが、「莉子ちゃん」の漢字は答えられなかった。
拓也さんは「葛藤の末、今こう思っています。被告は刑務所に行かなければ罪と向き合うことはできない。刑務所に行き、命や無念と向き合う時間を持つことが心からの償いになる」と述べた。
池袋暴走事故と遺族の活動の経過
2019年4月19日 | 飯塚幸三元院長が運転する乗用車が暴走。はねられた松永真菜さんと長女莉子ちゃんが死亡し、9人が重軽傷 |
7月18日 | 松永さんの夫拓也さんが厳罰を求める署名活動を開始。9月に約39万筆を東京地検に提出 |
11月12日 | 警視庁が自動車運転処罰法違反容疑で飯塚元院長を書類送検 |
11月20日 | 「関東交通犯罪遺族の会」が医師の診断を必須とする高齢者限定免許の導入などを求める要望書を国土交通相に提出 |
2020年2月6日 | 東京地検が飯塚元院長を自動車運転処罰法違反で在宅起訴 |
6月2日 | 一定の違反歴がある75歳以上のドライバーに免許更新時の実車試験を義務づけることなどを柱とした改正道路交通法が成立 |
10月8日 | 初公判で飯塚元院長が無罪を主張 |
2021年4月27日 | 被告人質問で飯塚元院長が「アクセルが床に張り付いて見えた」と事故の状況を語る |
6月21日 | 拓也さんが法廷で飯塚元院長に直接質問。閉廷後に「刑務所に入って、命と向き合ってほしい」とコメント |
7月15日 | 検察側が法定刑の上限にあたる禁錮7年を求刑 |
9月2日 | 東京地裁が禁錮5年の判決 |
9月17日 | 判決が確定 |
拓也さんと真菜さんの出会い
拓也さんによると、東京出身の拓也さんと沖縄出身の真菜さんが初めて会ったのは2013年。拓也さんが母方の親族の集まりで沖縄に行き、たまたまいとこが紹介してくれたのが真菜さんだった。

「一目見て恋に落ちた」。口数の少ない真菜さんは、拓也さんの話を笑顔を絶やさずに聞いていたという。穏やかで温かい真菜さんの人柄にひかれ、拓也さんは帰京後も毎日の電話を欠かさなかった。月に2、3回、沖縄に行くようになった。
拓也さんから交際を申し込んだが、2度断られた。真菜さんは姉を白血病で亡くしており、家族を思うと沖縄を離れることは簡単ではなかったという。13年11月4日、「これで最後」と心に決めて交際を申し込んだ。真菜さんは「きょうは何日か知ってる? 11月4日、『いいよ』の日だよ」。照れながら受け入れてくれた。遠距離での交際を続け、1年後の11月4日に2歳下の真菜さんと婚姻届を出した。
仕事から家に帰ると、毎日笑顔で迎えてくれる真菜さん。「一緒にいること自体が幸せな日々だった」。腎臓が悪い拓也さんのために料理を工夫してくれたおかげで、体調はみるみる良くなった。
待望の第1子となる莉子ちゃんは16年1月、3170グラムで生まれた。小さな体をそっとなで、2人で涙を流した。「莉」はジャスミンを意味する言葉に使われる漢字で、ジャスミンの花言葉は「愛らしさ」。人を癒やし、人から愛される。そんな女性になってほしいとの願いを込めた。

莉子ちゃんは真菜さんが大好きで、2人でおやつを作ったり、公園に行ったりするのが楽しみだった。また、莉子ちゃんは温泉が好きで、家族で温泉旅行に出かけることも多かったという。家族3人で沖縄で暮らす計画も持ち上がっており、20年にも引っ越しをする予定だった。
警察からの連絡
事故があった2019年4月19日の朝。拓也さんは真菜さん、莉子ちゃんと玄関で抱き合い、「行ってきます」「行ってらっしゃい」と、いつものやりとりをして仕事に向かった。
「自転車なんて珍しいね。気をつけて帰るんだよ」。昼休みにテレビ電話で話した。近所の公園に自転車で出かけていると聞き、真菜さんにこう言葉をかけたという。
約2時間後、「2人が事故に遭った」と警察から電話があった。詳しい話は聞かされないまま電車に飛び乗った。「これは夢だ、これは夢だ」。何度も自分に言い聞かせた。
そうこうするうちに携帯電話にニュース配信が飛び込んだ。「30代とみられる女性と3歳ぐらいの女児が心肺停止」。ガタガタと手足が震え、電車の床に座りこんだ。「無事でいてくれマナりこ」。震える手で打ち込んだ「LINE(ライン)」のメッセージは、今も既読がつかないままだ。
病院に着くと、「2人は即死だった」と聞かされた。遺体の身元確認で真菜さんにかけられた布をめくると、「あんなに美しい顔が傷だらけで冷たくなっていた」。莉子ちゃんの顔も確認しようとしたが、看護師は「見ない方がいいと思います」と言った。小さな手を握ったが、握り返してくれなかった。
翌日の警視庁目白署。署員から「エンバーミングをしますか」と尋ねられた。損傷した部分を修復し、生前の容姿に近づける処置のことだ。莉子ちゃんの傷はひどく、3日かかるという。いつも真菜さんのそばから離れようとしない莉子ちゃんを1人にするのは忍びなかった。「最後の時間は3人で過ごしたい」。申し出を断り、2人を自宅アパートに連れ帰った。
莉子ちゃんは食事の時、3人で手をつなごうと、よくねだった。拓也さんはそんな温かい食卓の情景を思い出し、並べたひつぎの間に座って2人の手を握った。温かくて柔らかい手と違い、冷たくて、硬かった。「真菜、莉子」と呼び掛けても、返事はない。眠ることも食べることもできず、莉子ちゃんに「ノンタン」の絵本を読んであげた。この夜の2人の冷たい手の感触は、今でも忘れられないという。
4月24日の告別式の後、拓也さんは改めて不条理な現実を突き付けられた。目の前にあるのは、片手に収まるほど小さい莉子ちゃんの遺骨を納めた骨つぼ。「こんな悲しみを誰にも体験してほしくない」。そう心に刻み、その日、東京都内で記者会見を開いた。
名前は公表しなかったが、自分の表情を含めて遺族が直面した現実感ある思いを伝えたいと、顔をオープンにすることを了承した。同時に報道陣に公表したのが、莉子ちゃんを抱いてほほえむ真菜さんの写真。あふれ出る涙と悔しさで拓也さんの顔はくしゃくしゃだった。
「『31歳の女性と3歳の女の子が亡くなった』。それだけ伝えられても何も変わらない。必死に生きていた若い女性と、3年しか生きられなかった命があったことを現実的に感じてほしい。今回をきっかけに(交通事故の)被害者がいなくなる未来になってほしい」。そう願った末の行動だった。
厳罰求め、署名活動

拓也さんは事故から約3カ月後の2019年7月、飯塚元院長への厳しい処罰を求める署名活動を始めるため、自身のブログを開設した。軽い処罰で終わっては、今後の事故抑止につながらないと考えたからだ。約2カ月で39万1136筆の署名を集め、東京地検に提出した。
同11月には、事故後に加わった一般社団法人「関東交通犯罪遺族の会(あいの会)」のメンバーと共に、高齢ドライバーの事故対策などに関する要望書を赤羽一嘉国土交通相(当時)に手渡した。
拓也さんは19年9月にフェイスブック、20年1月にはツイッターを始め、交通事故をなくすための情報発信を続けている。「交通事故や被害者支援について考えるきっかけになった」などのメッセージに励まされているという。

だが、自身の露出が増えるにつれ、「悲劇のヒーロー気取りか」「うざい」などと、中傷のコメントを送られることも増えた。真菜さんと莉子ちゃんが事故に遭ったのは「前世で悪いことをしたからだ」と言われたこともあった。
22年3月には、「金や反響目当てで闘っているようにしか見えませんでしたね」などとする匿名のメッセージがツイッターのアカウントに送られてきたため、拓也さんは「誹謗(ひぼう)中傷のない世の中にしたい」として警視庁に相談した。
拓也さんは「人間だから中傷を受けるのは怖い。でも、2人の命を無駄にしたくないとの思いで、これからも活動を続けていきたい」と話す。
刑務所で服役
2021年9月17日に禁錮5年の判決が確定した飯塚元院長は10月12日、東京拘置所に収容された。この日に合わせ支援者を通じてコメントを公表し、事故はブレーキとアクセルを踏み間違えた結果だったと自身の過失を初めて認めた。裁判では過失を否定してきたが、判決文などを読んで過失があったと理解したという。
「この度の刑事裁判では、事故当時の私には踏み間違いの記憶がなかったため、被害者とそのご親族の方々に心苦しくも無罪を主張させていただきましたが、提出された証拠及び判決文を読み、暴走は私の勘違いによる過失でブレーキとアクセルを間違えた結果だったのだと理解し、控訴はしないことにいたしました。亡くなられた松永真菜様・莉子様のご家族ご親族様と、おけがをされた被害者の方々には深くおわび申し上げます。私の過失を反省するため刑に服してまいりたいと思っております。また、この事故で多くの方々にご迷惑をおかけしましたことをおわびいたします」(コメント要旨)
拓也さんも代理人弁護士を通じてコメントを発表した。
「今回のマスコミ向けの彼(飯塚元院長)のコメントでは、過失を認めたようですが、『最初からこの言葉があれば』と、どうしても思ってしまいます。これから真の意味で償える日が来るかどうかは彼次第だと思います。ただ、彼が収監されても、世の中から交通事故が無くなるわけではありません。私は真菜と莉子の命を無駄にしたくはありません。皆様にも忘れないでほしいです。そして、未来の命が守られることを心から願っています」(要旨)。
東京拘置所に収容された飯塚元院長は現在、刑務所で服役中だ。
高齢ドライバーの対策強化

池袋暴走事故など各地で高齢ドライバーの重大事故が相次いだことを受け、国や自治体は運転に不安がある人が自主的に運転免許を返納する制度の周知を強化した。この結果、池袋の事故があった2019年は自主返納件数が全国で急増し、過去最多の60万1022件にのぼった。
道交法も改正され、22年5月からは、75歳以上で一定の違反歴があるドライバーに免許更新時の運転技能検査(実車試験)が義務化された。過去3年間に信号無視などの違反をした人が対象となり、指示された速度での走行や一時停止などがチェックされ、合格できなかった場合は免許失効となる。


また、安全運転サポート車(サポカー)だけを運転できる限定免許制度も同月から新設された。限定免許の対象となるサポカーは、①20年度以降に製造され、国土交通相の性能認定を受けた衝突被害軽減ブレーキ(自動ブレーキ)と急加速抑制装置を備えた車②21年11月以降に衝突被害軽減ブレーキの搭載が義務づけられた車――に限られる。限定免許はドライバーの申請に基づいて交付され、高齢者以外でも申請できる。
一方で、地方を中心に車が“生活の足”になっている実態があり、高齢者の移動手段の確保が課題となっている。