「理不尽放っておけない」 空襲被害者を動画に記録し続ける40歳

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「空襲被害者の救済法の成立に向け、少しずつでもさざ波を起こしたい」と願う福島宏希さん=東京都千代田区で2022年3月3日、吉田航太撮影
「空襲被害者の救済法の成立に向け、少しずつでもさざ波を起こしたい」と願う福島宏希さん=東京都千代田区で2022年3月3日、吉田航太撮影

 ロシアに侵攻されたウクライナで、破壊された街を歩きながらうつろな表情を見せる子どもらと、大勢の人が炎に襲われ逃げ回った「あの夜」を重ね合わせた。東京都江東区で3月9日に開かれた東京大空襲の犠牲者を追悼する集会。1945年3月10日の空襲で母を奪われた82歳の女性は声を振り絞った。「ウクライナで恐怖に震える少女の姿は、まさに77年前の私たちです」。今、海外で起きている惨状は人ごととは思えない。参加者の表情はそう語っているようだった。

 追悼集会では、会場にいる人と、ビデオ会議システムでつながった人が、犠牲者の名前を1人ずつ読み上げていった。パソコンを操作しているのは、横浜市で暮らす福島宏希さん(40)。戦争被害者の語りを記録した動画を作り続けている。約10万人の命が奪われた空襲。紹介したのは遺族らの承諾を得た1582人。「戦争の被害を『数字』で語りたくはない。一人一人に人生があり、言いたいことがあると思います」。名前を読む意義をこう語る。

 政治学者の父と教員の母、姉がいる家庭で育ち、ニュースについてよく話題にしていた。「戦争」に触れたのは小学生の時。太平洋戦争中の疎開を疑似体験する授業で、学校に布団を持ち込んで一晩泊まった。食事は芋や大根の葉で作った煮汁だけ。空腹のあまり泣き出す同級生もいたが、福島さんの中では「ちょっと変な、面白い経験」として記憶に残った。

 ぜんそくに苦しんだ少年時代でもあった。自分と同じように小柄で体が弱い友人がいじめられて不登校になった時には、いてもたってもいられず、その友人の家に電話をかけた。悩んだ末に出た言葉は「学校に来なよ」。友人を守れない自分のふがいなさに落ち込んだけれど、弱い者いじめを見て見ぬふりをするのは嫌だった。

 地震被害があれば寄付をしようと両親に訴え、西アフリカでの植林活動への寄付につながるカレンダーはお年玉で買った。小学校の探求学習のテーマだった、日本企業がマレーシアのマングローブを切ってエビの養殖をしている問題については、今でも記憶に鮮明に残るほど調べ込んだ。母の和子さん(68)は「普段はのんびりマイペースだが、気になったことには没頭する子だった」と振り返る。

補償求め発信

 早稲田大理工学部に進学し、環境問題サークルに入った。学内のゴミ箱を調査し、弁当容器が多いことをつかむとリサイクルできる容器を食堂で使ってもらうよう働き掛けた。仲間と活動する楽しみを知った時期でもあった。米国のフロリダ州立大学大学院修了後は、環境コンサルティング企業や環境保護活動のNPO法人で働く日々を送った。

 「戦争」に近づいたのは30歳ごろだった。以前から司馬遼太郎の歴史小説などが好きだったが、現代史にも関心が移り、太平洋戦争に関する文献を読みあさった。ただ、友人に戦争を話題にしても戦争が起きた理由といった基本的なことを語れる人はいなかった。自身も、戦争から何を学び、今に生かすべきなのかをはっきりと答えられないことに気がついた。

 「戦争を体系だてて説明するサイトを作りたい」。そう思いついた福島さんは2016年に「太平洋戦争とは何だったのか」と題したブログを1人で開設した。「高校生がふと太平洋戦争のことを調べてみようと思った時、または20代の会社員が時事的なネタに触発されて『そういえば太平洋戦争ってどんな戦争だったっけ』と思った時、役に立てるサイトです」。17年4月にブログのページにそうつづり、少しずつ内容を更新した。

 17年のある日、空襲に遭って心身に障害を負った人々が補償を求めて活動していることをネットで偶然知った。戦後70年以上たっても放置されたままの人々の存在は、衝撃だった。「戦争は終わったものではなかったんだ。実…

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