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江戸時代中期、日本の古典に儒教、仏教が渡来する前の固有の精神を探る国学が盛んになる。本居宣長(1730~1801年)は、国学四大人(うし)(師匠)の一人。伊勢・松阪に住み1772(明和9)年3月、「吉野の花見にと思ひたつ」。一行は6人。「菅笠日記」は10日間の旅の記録だ。竜在峠を越え吉野入りした。
桜井市の多武峰西門から吉野の方に折れて「はるかに山路をのぼりゆきて。手(た)向(むけ)(峠)に茶屋あり。やまとの國中(くになか)見えわたる所也」。明日香村冬野だ。「なほ同じやうなる山路」を歩き「又たむけにいたる。ここよりぞよしのの山々」。竜在峠だが名は出ない。峠からは「よしのの山々。雲ゐはるかにみやられ」た。貝原益軒が細峠から見た展望が開けていた。「あけくれ心にかゝりし花の白雲」を「みつけたる。いとうれし」。峠から吉野町滝畑に下り、矢立峠を越えて千股で宿をとった。翌日、上市に出、「ひまもなくうかべるいかだをおし分(わけ)て」舟で吉野川を渡り、桜の中を吉野山に登った。「子守(こもり)の御社」は、父親が子に恵まれないことを嘆き、はるばると祈願に来た神社。程なくして宣長が生まれ、参拝は長年の念願だった。社は今の吉野水分(みくまり)神社。宣長の時も「みくまり」がなまって「子守」と呼ばれ、子孫の栄えを祈る神となっていた、と書く。帰りは大淀、高取両町の境の畑屋越を越えた。
宣長が吉野山を訪れたのは、賀茂真淵(1697~1769年)に出会った1763(宝暦13)年5月25日の「松阪の一夜」から9年後だ。
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