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あさま山荘事件と山岳ベース(アジト)事件は、共産主義革命(財産の私有を否定し、生産手段などを共有することで貧富の差のない社会を実現するための運動)を目指した新左翼組織(日本共産党などの「既成左翼」と対比させた用語)「連合赤軍」が1971~72年に起こした事件である。
連合赤軍メンバー5人が長野県軽井沢町の保養所に立てこもった「あさま山荘事件」は発生から10日目に人質が救出されて全員が逮捕されたが、その後の取り調べなどから、連合赤軍が立てこもり事件前に群馬県内の山岳アジトで集団リンチを繰り返し、仲間12人が死亡していたことが発覚した。
これにより新左翼を好意的に見ていた人々の支持は急速に失われ、社会運動や学生運動が衰退する一因になったといわれている。
事件概要

あさま山荘事件
事件名 | あさま山荘事件 |
発生日時 | 1972年2月19日午後3時半ごろ |
場所 | 長野県軽井沢町 |
被害者 | 警察官ら3人が銃撃され死亡。山荘の管理人の妻(当時31歳)が人質に |
容疑者 | 連合赤軍メンバーの男性5人(全員が山岳ベース事件にも関与) |
動機 | 警察から逃走中に立てこもる |
判決など | 1人が死刑、他3人が無期懲役など。坂東国男容疑者はクアラルンプール事件の超法規的措置で釈放され国外逃亡中 |
特徴 | 猟銃などを所持し、人質をとって10日間立てこもった |
山岳ベース事件
事件名 | 山岳ベース事件 |
発生日時 | 1971年12月~72年2月 |
場所 | 群馬県内の山中に設置した山岳ベース(アジト) |
被害者 | 連合赤軍メンバーの男女12人(21~28歳)が死亡 |
容疑者 | 連合赤軍メンバーの男女17人 |
動機 | 最高幹部らが「死を恐れない革命戦士の育成」などを建前として、気に入らないメンバーらを殺害するなどした |
判決など | 2人が死刑、12人が懲役刑、未成年者1人が保護処分。このほか1人が自殺し、坂東容疑者は国外逃亡中 |
特徴 | 仲間内で「総括」と称した集団リンチを繰り返した。主導した幹部以外も追従し、手口も凄惨(せいさん)を極めた |

連合赤軍は、主に次の事件を起こした。
・軽井沢町の保養所に人質をとって立てこもり、警察官ら3人を射殺した「あさま山荘事件」
・群馬県の山岳アジトで軍事訓練中、仲間内での集団リンチにより12人を殺害するなどした「山岳ベース事件」
・仲間2人を殺害し、千葉県の印旛(いんば)沼周辺に遺体を埋めた「印旛沼事件」
このうち「あさま山荘事件」は、武装闘争による共産主義革命を掲げた男性メンバー5人が1972年2月19日、軽井沢町の別荘地にある河合楽器の保養所「あさま山荘」で管理人の妻を人質にとり、猟銃などを持って立てこもった事件である。
警察は山荘を取り囲んで投降を呼び掛けたが説得に応じず、発生から10日後の2月28日、機動隊が一斉に突入した。銃撃戦の末、人質を無事救出したが、警視庁の隊員2人が撃たれて死亡、27人が重軽傷を負った。立てこもっていた16~25歳(当時)の男性5人は殺人などの容疑で全員逮捕された。突入の6日前には、人質の身代わりを申し出て山荘に近づいた一般市民の男性1人も銃撃を受け、後に死亡した。
事件後、連合赤軍が軍事訓練のために設けた群馬県・榛名山(はるなさん)などの山岳アジトで、「総括」と呼ばれた集団リンチが繰り返され、同志12人が殺害されるなどしていた山岳ベース事件が発覚し、社会に衝撃を与えた。新左翼が起こした残酷な事件は、若者の社会変革への情熱に冷や水を浴びせる結果となり、若者の政治離れにつながったとされる。
連合赤軍の結成
60年代後半、泥沼化していた米国のベトナム戦争によって、国内では反戦・反米の機運が高まっていた。新左翼組織は70年の日米安全保障条約改定(条約の自動延長)を阻もうと、いわゆる「70年安保闘争」を展開した。学生たちはヘルメットをかぶってゲバ棒を手にデモ行進などを行い、警察には投石や火炎瓶で対抗した。
しかし、69年10月に東京・新宿を中心に起きた国際反戦デー闘争、翌11月の佐藤栄作首相(当時)訪米阻止闘争でそれぞれ1000人超、2000人超の逮捕者を出した。各組織は大規模な闘争を続けることが難しくなり、日米安保条約は結局、70年に自動延長された。また、新左翼同士の内ゲバ(内部対立)が激しくなったことなどから、次第に大衆の支持も失うと、運動は過激化・先鋭化していった。
こうした行き詰まりの中で、71年7月に誕生したのが連合赤軍だった。世界同時革命を目指す「共産同赤軍派(赤軍派)」の一部と、毛沢東の革命思想を掲げる「京浜安保共闘(日本共産党革命左派神奈川県委員会)」=日本共産党とは別組織=という二つの組織が合流して結成された。

赤軍派は69年、学生運動で主流だった新左翼組織「共産主義者同盟」の中で、特に過激路線をとるメンバーが結成した組織だった。武装蜂起の訓練を警察に察知されて多数のメンバーが逮捕された同年の大菩薩峠事件後、海外に革命の拠点を求める「国際根拠地論」を打ち出し、一部のメンバーは出国。国内に残ったメンバーは71年2月以降、活動資金を得るために金融機関を襲う「M(マフィア)作戦」と名付けた連続強盗事件を起こした。
もう一方の京浜安保共闘は、国内での共産主義革命の実現を目指すグループだった。「鉄砲から権力が生まれる。鉄砲がなければ権力は握れない」などとする「唯銃(ゆいじゅう)主義」と名付けた思想を掲げ、71年2月、栃木県真岡市の銃砲店を襲って散弾銃などを奪った。ここで奪った銃が、あさま山荘事件で使用された。
赤軍派と京浜安保共闘は、革命の実現方法に関する理論面では相いれなかったものの、資金と武器を互いに補完し合えるという利害が一致して接近したとされる。連合赤軍の結成を受け、最高幹部には赤軍派出身の森恒夫・元被告(山岳ベース事件などで起訴後の73年1月に東京拘置所で自殺)と京浜安保共闘出身の永田洋子・元死刑囚(山岳ベース事件などで死刑確定後、収容中の2011年2月に病死)が就いた。
連合赤軍に関連する主な出来事
1968年3月 | 京浜安保共闘が旗揚げ |
69年9月 | 共産同赤軍派(赤軍派)が結成大会 |
11月 | 大菩薩峠事件で赤軍派メンバーを大量逮捕 |
70年3月 | 赤軍派の一部メンバーが日航機「よど号」をハイジャック |
71年2月17日 | 京浜安保共闘が栃木県の銃砲店に押し入り猟銃などを強奪 |
22日 | 赤軍派が金融機関を襲撃する「M作戦」を開始 |
7月 | 赤軍派、京浜安保共闘が合流を宣言し、連合赤軍を結成 |
8月 | 京浜安保共闘が離脱しようとした2人を殺害、遺体を千葉県内に遺棄(印旛沼事件) |
12月 | 群馬県内の山岳ベースで、「総括」を名目として連合赤軍メンバー同士のリンチが激化。翌72年2月までに12人が死亡 |
72年2月17日 | 最高指導者の森恒夫・元被告、永田洋子・元死刑囚が逮捕される |
19日 | 長野県の「あさま山荘」にメンバー5人が立てこもり |
28日 | 警察が突入し5人を逮捕、人質女性は無事救出 |
3月 | 山岳ベース、印旛沼の両事件で殺害されるなどした計14人の遺体発見 |
5月 | 海外出国した赤軍派の一部メンバーらがイスラエルのテルアビブ・ロッド空港で銃乱射事件を起こす。日本赤軍が結成される |
73年1月 | 森恒夫・元被告が東京拘置所内で自殺 |
82年6月 | 永田洋子・元死刑囚に東京地裁が死刑判決。93年に死刑確定 |
2011年2月 | 永田元死刑囚が東京拘置所で病死 |
山荘への立てこもり

金融機関や銃砲店を襲った事件などで警察に指名手配された森元被告や永田元死刑囚らは都市部での活動が困難になり、山の中にアジト(山岳ベース)を求めた。71年12月に群馬県の榛名山アジトに入り、群馬県内の迦葉山(かしょうざん)アジト、妙義山アジトなどへと拠点を移していった。しかし、アジトといっても廃屋やテントを一時的に利用していたに過ぎず、そこで厳冬期を過ごすのは困難を極めた。また、仲間内で激しいリンチが続いていたことから脱走するメンバーもいた。
72年2月16~19日、資金調達のために一時下山していた森元被告や永田元死刑囚を含むメンバーらが相次いで群馬、長野の両県警に逮捕された。一方、男性メンバー5人は19日朝に妙義山から群馬・長野県境を越えて軽井沢町に入った。ラジオで森元被告らの逮捕を知った5人は、周囲の別荘地に潜伏しようと考え、近くにあった「さつき山荘」に侵入した。
19日午後2時40分ごろ、付近を捜索していた長野県警機動隊員が足跡を見つけて5人を追跡。「さつき山荘」周辺で銃撃戦が行われた末、5人は逃走し、今度は約500メートル離れた「あさま山荘」に向かった。あさま山荘は鉄筋コンクリート3階建てで、急峻(きゅうしゅん)な斜面に建っていた。
当時、管理人は買い出しのため不在で、妻が1人で留守番をしていた。5人はこの女性を人質として山荘に立てこもることを決め、長期戦を見据え、廊下に家具などを積み上げてバリケードを築いた。壁には、外の様子をうかがい銃口を外に向けるための小窓(銃眼)も設けた。
あさま山荘は、軽井沢駅から南へ約6キロ離れた「レイクニュータウン」と呼ばれる別荘地にあった。カラマツ林の中に、当時は約500軒の別荘が点在していた。
「決死隊」突入

立てこもり発生の一報を受け、山荘周辺には地元・長野県警の機動隊が出動したほか、警視庁や群馬県警の機動隊も応援に入った。警察庁は「人質の人命尊重を第一に考え、持久戦で臨む」との方針を示した。この方針の背景には、警察が当初、立てこもった容疑者の人数を把握し切れていなかったという事情もあったとみられる。
当時の野中庸・長野県警本部長は発生当日の記者会見で、「(最初の)山荘を出た時に連赤(連合赤軍メンバー)が5人いたのは確実だが、あさま山荘の出入り口では足跡が2種類しか確認できなかった」と説明した。警察は慎重な対応を取らざるを得なかった。
発生から4日目の22日、立てこもっているとみられるメンバー1人の母親が現地を訪れた。午前9時過ぎ、マイクで「人質になっている人を出して。これ以上親を心配させないで」などと涙声で呼び掛けたが返事はなく、威嚇射撃があっただけだった。
この日は膠着(こうちゃく)状態の中で血も流れた。新潟市から現場を訪れたスナック経営の20代男性が警備の隙(すき)をつき、山荘の玄関に接近。「私が身代わりになる」と叫びながら強引に中に入ろうとしたところ中から撃たれた。男性は8日後の3月1日に死亡し、連合赤軍による一連の事件で警察官や連合赤軍メンバー以外では唯一の犠牲者となった。
機動隊は立てこもりグループの説得を続けるとともに現場周辺の偵察を進めたが、人質の女性が建物内のどこにいるか把握しきれずにいた。それでも25日、人質の体力などを考慮し、発生10日目の28日に突入することを決めた。被弾を防ぐための土のう作りや、盾を持って急斜面を登る訓練なども並行して続けた。

迎えた28日。機動隊員約1500人が山荘を包囲した。午前9時、野中本部長が「銃を捨て、白い布切れを持って出てこい。話し合う気があるなら受け入れる用意がある」と警告。さらに約30分後には「あと30分で部隊は実力を行使する」と通告した。
午前10時、機動隊が行動を開始。10時47分にはクレーンにつり下げられた巨大な鉄球が山荘の外階段や壁を破壊した。11時10分、1~3階への突入命令が出た。機動隊はまもなく、容疑者がいなかった1、2階の制圧に成功したが、3階からは激しい反撃を受けた。
警視庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部(当時42歳)=2階級特進で警視正、第2機動隊長の内田尚孝警視(当時47歳)=2階級特進で警視長=が相次いで銃撃を受け、その後死亡した。当時、現場にいた長野県警の機動隊員は「戦争はこういう感じなのかと思った」と振り返った。
人質の救出と3階の制圧は同日夕にずれ込んだ。警視庁第9機動隊と長野県警機動隊が各2人ずつで「決死隊」を編成して再突入。隊員は2枚重ねにした盾で銃撃を受けながら、内部に築かれたバリケードを突破した。放水の援護も受けながら、人質がいるとみられるベッドルームに後続部隊となだれ込んだ。
決死隊の一員だった警視庁の元警察官は「目の前に出てきた腕を犯人だと思ってつかんだ。『私、違います』と言われ、顔を確認したら、事前に何度も確認していた人質の女性だった」と振り返った。

連合赤軍メンバーは立てこもった5人全員が逮捕された。時刻は午後6時を過ぎていた。人質の解放は約218時間ぶり。メンバーの一人、坂東国男容疑者の父親は逮捕直前、「死んでお詫(わ)び申し上げます」などと記した遺書を残して自宅で自殺した。機動隊が突入する様子はNHKと民放各局で中継され、視聴率は90%近くに上った。
あさま山荘事件を巡っては、長野県警や警視庁に叱咤(しった)や激励の声が多数寄せられた。「もっと早く突入できないのか」「ヘリで屋根をはがせばよい」といった意見のほか、殉職した警察官の家族に寄付金を届けようとする手紙も多数あった。現場の機動隊員がカップヌードルを食べていたシーンが中継されたことから、カップヌードルの売り上げが急増した。

データベース記事から |
山岳ベース事件の発覚

最高幹部だった森元被告や永田元死刑囚、立てこもった5人を含む連合赤軍メンバーらの取り調べは、群馬県や長野県の警察署で行われた。立てこもりの発生前に逮捕されたメンバーの一人は職業を問われ、「革命戦士です」とだけ答えた。名前や住所は明かさなかったという。
このメンバーは、その後に少しずつ取り調べに応じるようになり、「14人やりました(殺害しました)」と供述した。捜査に当たっていた検事の一人は取材に「最初は14人で1人を殺害した、ということだと思った。大勢が亡くなったとわかり、部屋のストーブの炎が血の色に見えた」と明かした。
「総括」と称した集団リンチが激しくなったのは、メンバーが群馬県内の山岳ベースにいた71年12月下旬からだ。真冬の山中で樹木に縛りつけ、食事を与えずに放置する。アイスピックで刺した上で首を絞める――など、その手口は凄惨を極めた。

総括は「革命戦士としての闘志が見られない」などの理由で行われたが、中には「脱走の恐れがある」「別のメンバーを殴るとき、個人的な思いを発言したから」として総括の対象になった人もいた。「恋人にキスしていたから」として殺されたケースもあり、異常なリンチは2カ月余り続いた。
メンバーには兄弟も含まれていたが、弟が兄を殴るよう指示されたこともあった。妊娠8カ月の女性は「妊娠を理由に甘え、開き直っている」という理由で殺害された。リンチは森元被告や永田元死刑囚が主導したとされ、ほかのメンバーは「反抗すれば自身が総括の対象になる」との恐れから反対できなかったとされる。
山岳べースに集まったメンバー29人のうち、リンチによって死亡したのは21~28歳の男女12人。メンバーらの供述に基づき、全員の遺体が群馬県の山中から発見された。さらに、連合赤軍の母体の一つだった京浜安保共闘が71年8月、組織から離脱しようとした男女2人を殺害し、遺体を千葉県の印旛沼周辺に埋めていたことも発覚した。
一連の事件による死者は、あさま山荘事件で3人、山岳ベース事件で12人、印旛沼事件で2人の計17人に上った。
連合赤軍メンバーのその後
一連の事件では計17人が逮捕された。当時19歳と16歳の少年2人が含まれており、16歳の少年を除く16人が起訴された。2人が死刑、1人が無期懲役、11人が懲役4~20年の判決を受け、いずれも確定した。ほか1人は自殺し、もう1人は国外に逃亡した。
このうち、最高幹部だった森元被告は72年4月、勾留先で自己批判書を書き上げた。リンチを「同志的援助」として正当化する内容で、「12人の同志の名誉を回復し、ともに戦った多くの同志に対する責任を取り、人民裁判を受けて有罪(死刑)判決を受けるために生きたい」「(通常の)権力による裁判でもやむを得ない。そういう裁判では何もしゃべらない」などと書いた。その後、初公判を間近に控えた73年1月1日に収容されていた東京拘置所で自殺した。
もう一人のリーダーの永田元死刑囚は、山岳ベース事件での12人に対する殺人・傷害致死・死体遺棄罪と、印旛沼事件の殺人・死体遺棄罪などに問われた。1審・東京地裁は「森と永田は地位を脅かす恐れのある者、批判的、反抗的態度をとる者など、要するに邪魔者、気に入らぬ者は誰彼を問わず標的にすえた」「欠点や過去の失敗をあげつらい、男女関係、服装など些末(さまつ)な事柄を、あたかも革命戦士の資質に関係があるように理由づけ、日和見主義者、脱落者などのレッテルで厳しい追及を強いた」と指摘し、検察側の求刑通り死刑を言い渡した。
ただ、永田元死刑囚について「自己顕示欲が旺盛で感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑(さいぎ)心、嫉妬心を持ち、これに女性特有の執拗(しつよう)さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に多くの問題があった」と指摘した部分は、「個人の資質に責任を押し付けている」「女性蔑視的だ」といった批判も上がった。
永田元死刑囚は事実誤認があるなどとして控訴したが、2審・東京高裁も1審判決を支持。上告も棄却され、93年2月に死刑判決が確定した。裁判では「自分一人の責任ではない」などと森元被告に責任をかぶせる発言もあった。永田元死刑囚は「殺意はなかった」などと2001年に再審請求したが、06年に棄却された。11年2月、収容先の東京拘置所で病死した。
森元被告、永田元死刑囚に次ぐ幹部で、警察の追跡を逃れてあさま山荘にも立てこもった坂口弘死刑囚も死刑が確定し、現在は東京拘置所に収容されている。
同じく立てこもりメンバーの一人、坂東容疑者は、殺人罪などで起訴された後の75年、日本赤軍がマレーシアの米大使館などを占拠したクアラルンプール事件の際の超法規的措置で釈放され、国外に逃亡。今も国際手配されている。
残る立てこもりメンバー3人(少年2人を含む)は従属的な立場だったとされ、このうち当時少年ではなかった吉野雅邦受刑者は、無期懲役が確定し服役している。
事件に関与した主なメンバーのその後
氏名 | 判決など |
森恒夫 | 連合赤軍最高幹部。殺人罪などで起訴後、初公判前に自殺 |
永田洋子 | 連合赤軍最高幹部。殺人罪などで起訴され死刑確定。2011年に東京拘置所内で病死 |
坂口弘 | 幹部。殺人罪などで起訴され死刑が確定し、東京拘置所に収容中 |
吉野雅邦 | 幹部だったが「従属的な立場だった」などとして無期懲役。服役中 |
坂東国男 | 幹部。殺人罪などで起訴後、日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件を受けた超法規的措置で出国し日本赤軍に合流した。77年のダッカ事件にも関与したとして、警察庁が国際手配している |
※他に逮捕されたメンバーは12人。当時16歳だった少年1人が保護処分を受け、残る11人は懲役4~20年が93年までに確定。全員が既に出所した。
ノンポリ、三無主義…
連合赤軍事件は、列島を揺るがした60年代後半の学生運動、70年安保闘争の一つの転換点とされる。同志の間で起きた残虐なリンチ殺人という事実に、体制に不満を持ちながらも運動から離れた若者たちも少なくなかったためだ。
公安当局は、連合赤軍事件の後、市民運動の中で大きな勢力となっていたノンセクト層(党派に属さない活動家)が運動から離れたと分析している。若者の多くは事件の陰惨さに目を背けるように社会問題から距離を置き、「三無主義(無気力、無関心、無責任)」「ノンポリ学生」「事なかれ主義」などの造語が広がった。
ハイジャック、拉致事件疑いも
70年代には、連合赤軍が流れをくむ過激派組織なども各地で事件を起こしている。
よど号グループ

70年3月31日、連合赤軍の母体となった赤軍派のメンバー9人が、羽田発福岡行きの日航機「よど号」を乗っ取り、北朝鮮に出国した。国内初のハイジャック事件で、乗客らは福岡空港と韓国・金浦空港で解放された。9人は北朝鮮に渡り、国外移送目的略取容疑などで国際手配された。リーダーの田宮高麿元容疑者ら4人は既に死亡、他の1人も死亡したとみられているが確認はされていない。この1人に加え、北朝鮮に残っている4人と日本人妻2人が手配されている。
よど号グループのメンバーの一部は、日本政府が拉致被害者と認定している有本恵子さん(行方不明時23歳、神戸市出身)らの拉致事件にかかわったとされ、警視庁が結婚目的誘拐容疑で国際手配しているが、よど号グループ側は拉致事件への関与を否定している。
現在も北朝鮮で亡命生活を送るメンバーは望郷の念も抱いているとされるが、拉致事件に関する逮捕状の撤回を帰国の条件に挙げている。
データベース記事から |
日本赤軍


日本赤軍は、赤軍派の一部が海外に革命の根拠地を求めて脱出後に結成した国際テロ組織だ。マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と、世界の共産主義化の実現を目的としている。
71年2月、重信房子・元日本赤軍最高幹部(00年11月に大阪府内で逮捕され、懲役20年の判決が確定)はレバノンのベイルートに出国し、同じくマルクス・レーニン主義に立脚するパレスチナ解放人民戦線と接触して「赤軍派アラブ支部」の建設に取り組んだ。
あさま山荘事件に前後して赤軍派などのメンバーも相次いで逮捕されたため、重信元幹部らは72年3月、赤軍派や連合赤軍との決別を宣言した。同年5月には、日本赤軍として「初めての武装闘争」との位置づけで、イスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港で無差別乱射事件(死者24人、重軽傷者76人)を起こした。
日本赤軍はその後も、74年にオランダ・ハーグのフランス大使館占拠事件(ハーグ事件)、75年にマレーシア・クアラルンプールの米国大使館など占拠事件(クアラルンプール事件)、77年にパリ発東京行き日航機をインド上空で乗っ取ってバングラデシュ・ダッカ空港に強制着陸させた事件(ダッカ事件)など多数のテロ事件を起こした。
日本赤軍はテロで人質をとると、解放の条件としてすでに逮捕されている仲間らの釈放を要求。あさま山荘事件などで逮捕・起訴された坂東国男容疑者や、連続企業爆破事件の容疑者らを超法規的措置で出国させ、合流することに成功している。
警察庁は、坂東国男容疑者ら日本赤軍メンバー7人を国際手配している。重信元幹部は22年5月28日、刑期を終えて出所した。組織は解散を宣言したが、警察当局はテロ組織としての危険性は続いているとみている。
データベース記事から |