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毎日新聞朝刊1面の看板コラム「余録」。▲で段落を区切り、日々の出来事・ニュースを多彩に切り取ります。

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江戸っ子は初物に目がなかった…

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 江戸っ子は初物に目がなかった。「だいぶ時鳥(ほととぎす)の声を聞くが、まだ鰹(かつお)の声は聞かねえようだ」。長屋の住人が言うと、ちょうど「鰹、鰹」の売り声が聞こえてくる。河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作「髪結新三(かみゆいしんざ)」の一場面だ▲悪事で金もうけをたくらむ新三は、値の高い初鰹を買う。かたや余裕のない長屋の住人は、おろした後の鰹の頭をもらって「初鰹にありついた」と大喜び。「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句を踏まえた趣向に、江戸の初夏の風情が伝わってくる▲こちらも、もはや初夏の風物詩だろう。例年この時期、東京・新宿の繁華街、花園神社境内にこつ然と姿を現す紅(あか)テントだ。唐十郎(から・じゅうろう)さん率いる劇団唐組が来月5日まで、「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」を上演している▲唐さんが劇場を脱し、初めて花園神社に紅テントを建てたのは55年前。型破りな芝居で時代や社会に風穴を開けてきた。テントに入れば、そこは非日常。都会の雑踏や救急車の音、土や木々の匂い、雨も一期一会の観劇体験だ▲ひざを抱えてギュウギュウ詰めに座る光景は新型コロナウイルス禍で失われてしまったが、俳優の熱量と観客の熱気は変わらない。30年以上という年季が入ったテントは、劇団員が修理しながら大切に使っている▲芝居は屋台崩しで幕切れとなるのが恒例だ。舞台後方のテントが取り払われると新宿の街が姿を現し、虚構と現実の世界が一気に混じり合う。今の世界が見失っているものは何か。夜の闇に浮かぶ紅テントが問いかけてくる。

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