沖縄の子に「翼」を ラッパーAwichさん、新曲の思い 復帰50年

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3月14日に東京・九段の日本武道館で歌う沖縄出身のラッパー、Awichさん=cherry chill will.さん撮影(ユニバーサルミュージック提供)
3月14日に東京・九段の日本武道館で歌う沖縄出身のラッパー、Awichさん=cherry chill will.さん撮影(ユニバーサルミュージック提供)

 沖縄が米軍統治下から日本に復帰して50年。沖縄出身の人気ラッパー、Awich(エイウィッチ)さん(35)は、その当日の今月15日、新曲「TSUBASA feat. Yomi Jah」を配信リリースした。曲を作ったのは、愛娘が通う小学校に米軍ヘリの窓が落下した2017年の事故がきっかけだった。米軍基地が集中するなど、今なお負担が続く沖縄。曲名の通り、不条理の中で育つ子どもたちに、力強く羽ばたいてほしいとの希望を込めた。平和への願い、沖縄への複雑な思い、夫が射殺された過酷な体験からの再起などを聞いた。【佐野格】

「ヘリの部品が落ちた」

 「学校にヘリコプターの部品が落ちてきたっぽい」

 Awichさんは17年12月、一人娘で、現在はモデルの「Yomi Jah」として活動する鳴響美(とよみ)さん(14)からの電話で事故を知った。

 当時、小学4年生だったYomi Jahさんが通っていた沖縄県宜野湾市の市立普天間第二小学校に、隣接する米軍普天間飛行場から飛び立った米軍ヘリの窓が落ちてきたのだ。その校庭では約60人の児童が体育の授業を受けていた。重さ約8キロの窓が落ちた地点から、一番近くにいた児童までの距離はわずか10メートルだった。

 事故に着想を得た新曲「TSUBASA」は、歌詞に普天間第二小を思い起こさせる言葉が並ぶ。運動場が米軍基地とフェンス越しに接し、毎朝、君が代と米国国歌が聞こえてくる特異な状況でも、日々泣き笑いしながら成長していく子どもたちを温かく見つめる。空には爆音を響かせる飛行機が飛び交うが、恐れずに翼を広げて羽ばたいてほしいとの願いを込め、情感豊かに歌い上げる。そのミュージックビデオは、政府が普天間飛行場の県内移設先として埋め立て工事を進める、同県名護市辺野古地区でも撮影された。

米軍ヘリや飛行機が空を飛ぶ日常

 「沖縄の子どもたちに羽ばたいてほしいんです。(沖縄での)私たちの生活は、米軍ヘリや飛行機など何かがいつも空を飛び、見下ろされているけれど、自分たちが翼を広げて飛んでいく番なんだ、強く生き抜くんだ、という気持ちを曲に込めました。私は、娘にそういう生き方をしてほしい。娘とたくさん話し合って作りました」

 Yomi Jahさんも一緒に歌っている。長く発表せずにあたためてきたが、復帰50年の節目に発表することで、たくさんの人に聞いてもらうことにした。

 「改めて聞き返すと、50年にぴったりです。最高の形でリリースできると思いました。沖縄で育つ子どもたちがどう生きていくのか。すぐに答えは見つからないと思いますが、いろいろなことを考えるきっかけになればいいなと思います。大切なのは自分がどう生きるかだから」

米国への留学、出産、夫との死別

 生まれ育ったのは那覇市。子どもの頃、眠れない夜には日記や詞を書き、それが習慣になった。小学4年生からは、米軍基地内で英語を習い始めた。

 基地のフェンスの向こう側には、違う世界が広がっていた。大きなピザやアイス、有名アーティストのライブ。輝いて見えた。中学生の時には米国の伝説的なラッパー、2PACの音楽に触れ、ヒップホップへ傾倒。音楽活動を開始した。高校卒業後には米国の大学へ進学。通学中に出会った黒人男性と恋に落ち、学生結婚して愛娘が生まれた。しかし、幸せな生活は長く続かなかった。

 犯罪歴のある夫は更生しようとしていたが、生活は苦しく、悪い仲間との付き合いから抜け出せなかった。憧れた国には、黒人への人種差別という根深い問題もあった。

 家族で日本に戻って暮らそうとしていた矢先の11年6月。夫は事件に巻き込まれ、銃弾を受けて亡くなった。その後、娘とともに沖縄に戻ったが、失意のどん底で、音楽活動もやめた。

「私には歩き出せる力がある」

 「どうして死んでしまったの」。その悲しみから再起するきっかけになったのは、子どもの頃から書き続けてきたリリック(歌詞)だった。古いノートにつづっていたものを読み返し、自分がいかに音楽を愛していたのかを痛感した。

 他にも大きな力になったのは、音楽活動に反対していた父からの厳しくも愛のある言葉だった。「いつまでくよくよしているんだ。いつまでこういう暮らしをするんだ」

 自分の耳を疑った。「なんでそんなことを言うの? 私は夫を殺されたんだよ」。そう言い返すと、父は「それは悲しいことかもしれない。しかし、ウチナーンチュ(沖縄の人)は全員そうだぞ。友人や親戚や家族をほとんどの人が戦争で失っている。そこからまた動き出して何かを作り出し、子どもたちを産み、それで今のお前がいるんだぞ」

 太平洋戦争末期の沖縄戦では、当時の県民の4人に1人にあたる約12万人が命を失った。1941年の真珠湾攻撃の日に生まれた父は、その沖縄戦を生き抜いていた。「父の言葉で私も気付いたんです。ウチナーンチュである…

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