連載

ドナルド・キーンが描いた日本――生誕100年に

源氏物語をはじめ日本の文学や文化の魅力を世界に紹介した故ドナルド・キーンさん。生誕100年を機に、膨大な英語の著作から、その言葉の意味を考えます

連載一覧

ドナルド・キーンが描いた日本――生誕100年に

/8 玉音放送、そして終戦

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
1945年4~7月に参加した沖縄の戦場で、ドナルド・キーンさん(後列中央)。日系2世の部下たちとの交流は戦後も続いた=ドナルド・キーン記念財団提供
1945年4~7月に参加した沖縄の戦場で、ドナルド・キーンさん(後列中央)。日系2世の部下たちとの交流は戦後も続いた=ドナルド・キーン記念財団提供

 沖縄での戦闘が1945年6月にほぼ終結したのを受けて、ドナルド・キーンさんの部隊は一旦、ハワイに戻ることになった。船には捕虜となった日本兵や沖縄の軍属、朝鮮人の労働者ら約1000人が乗り込んでいた。船は途中、サイパンに帰港した。この時、誰かが船倉を浸水させるハプニングがあり、そこで2週間ほど、足止めをくらうことになった。

 日本にとっては、本土で連日、米軍による空爆があり、戦況は悪化の一途をたどっていた。政府はソ連に対して停戦のあっせんを依頼したが、ソ連はこれを拒否。7月17日には独ポツダムで米英ソによる会談が始まり、26日には「ポツダム宣言」が出されることになる。このころの話である。

One night at the officers' club on Saipan I heard an aviator betting anyone that the war would be over in a month. Naturally, I did not believe this was possible. I had learned never to trust anything an aviator said, but as a matter of fact his base was on the nearby island of Tinian, and he knew a secret that the people of Hiroshima and the rest of the world would learn about in a matter of weeks.

この記事は有料記事です。

残り3664文字(全文4362文字)

あわせて読みたい

マイページでフォローする

ニュース特集