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沖縄戦

「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦から77年。約3カ月に及んだ地上戦は住民を巻き込み、日米合わせて計約20万人が犠牲となった。

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障害者たちの沖縄戦 教え子を避難させようとした全盲校長の悲痛

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アルバムを見返しながら、父の高橋福治さんが開いた盲学校のことを振り返る一郎さん=宮崎市内で2022年6月8日午後4時17分、山口桂子撮影 拡大
アルバムを見返しながら、父の高橋福治さんが開いた盲学校のことを振り返る一郎さん=宮崎市内で2022年6月8日午後4時17分、山口桂子撮影

 77年前の1945年2月、米軍の侵攻が迫る沖縄から出身地の宮崎へと渡った全盲の男性がいた。当時、沖縄県立盲聾啞(ろうあ)学校の校長だった高橋福治(ふくじ)さん(故人)。生徒たちの避難先を九州で確保したい。そんな思いだったが、まもなく沖縄に米軍が上陸し、生徒たちは避難できなかった。地上戦の中を逃げ惑ったとみられる障害のある子供たち。高橋さんの長男一郎さん(90)は「何が起きているのかも分からず、怖かっただろう」と想像する。

 「写真を見返すと、それぞれの生徒の出身地を思い出す。いろいろな島から来よった。広場にガジュマルの木があって、みなでよう遊んだ」

1943年4月に沖縄県立に移管された盲聾啞学校での集合写真。当時の早川元・県知事(前列左から5人目)と高橋福治さん(同6人目)を中心に生徒たちが並ぶ=高橋一郎さん提供 拡大
1943年4月に沖縄県立に移管された盲聾啞学校での集合写真。当時の早川元・県知事(前列左から5人目)と高橋福治さん(同6人目)を中心に生徒たちが並ぶ=高橋一郎さん提供

 一郎さんは、宮崎市の自宅でモノクロ写真が貼られたアルバムをめくる。43年に沖縄で撮られた集合写真には高橋さんや当時の早川元・沖縄県知事とともに、その年に県立となった盲聾啞学校の生徒らが並んで写る。

 高橋さんは幼い頃にけがで失明した。盲学校を卒業し、地元の宮崎県でしんきゅうマッサージ師をしていたが、20年に単身、沖縄へ渡った。当時20代。以前から関心を持っていた沖縄に盲学校がないと知り、自らが支援しようと思いたったのだ。翌21年、那覇市に私立の「沖縄訓盲院」を開き、3人の生徒に点字の読み書きを教え始める。

 高橋さんは沖縄でもマッサージ師をしながら学校の運営資金を集めた。石垣島に分校を開くなど徐々に規模を広げ、43年4月には聴覚に障害がある生徒たちが通う聾啞学校と合併し、県立の盲聾啞学校となった。

 だが、沖縄に戦火が迫っていた。44年夏、高橋さんを沖縄に残し、家族は船で九州へ避難。45年2月には生徒たちに避難が指示され、高橋さんは予定を繰り上げて卒業式を開いた後、生徒たちの避難先を探すために宮崎へ向かった。45年4月、米軍は沖縄本島に上陸し、島は戦場となる。一郎さんは「父はずっと生徒が無事かを案じていた」と話す。

 校舎は高橋さんが沖縄を離れた後に焼失した。生徒たちはどうなったのか。県立盲聾啞学校の後身となっている県立沖縄盲学校(南風原(はえばる)町)の「創立60周年記念誌」に収録された名簿では、45年の卒業生と在校生のうち9人の欄に「死亡」と記されている。高橋さんの人生を児童文学作家の故・赤座憲久さんが聞き取り、89年に出版した「デイゴの花かげ」(小峰書店)にも「敗戦の年、二月に卒業した五人のうち二人、在学生十七人のうち七人が亡くなった」とあり、沖縄戦の中で命を落とした可能性が高い。

 一郎さんは生徒たちの被害について、父から聞いた記憶はない。「悲しんでいる姿は家族に見せなかったが、内心、避難させることができず、父は残念がっていたと思う」と語る。一郎さんによると、生き残った教え子たちが戦後、沖縄から宮崎の高橋さんの元を訪ねてきたことが何回かあった。「元気にやっていたか」。高橋さんはそう言って、うれしそうだった。

アルバムを見返しながら、父の高橋福治さんが開いた盲学校での様子を振り返る一郎さん=宮崎市内で2022年6月8日午後4時16分、山口桂子撮影 拡大
アルバムを見返しながら、父の高橋福治さんが開いた盲学校での様子を振り返る一郎さん=宮崎市内で2022年6月8日午後4時16分、山口桂子撮影

 高橋さん自身にも戦争の傷痕が残っていた。米軍上陸前の44年10月、那覇の街は米軍機の大群に襲われ、目が不自由な高橋さんも生徒たちを連れて避難した。「空襲を思い出すのか、雷が鳴ると頭から布団をかぶっとった。恐怖がよみがえっていたんやろう」。一郎さんは想像する。

 米国に占領された戦後の沖縄で障害児教育の再開は遅れた。盲聾啞学校の卒業生らの手で学校が再建されたのは終戦から6年たった51年のこと。高橋さんは52年にようやく沖縄を訪れることができ、その後は宮崎でマッサージ師をしながら沖縄との交流を続けた。

 72年に沖縄は日本に復帰。高橋さんはそれを見届け、74年に79歳で亡くなった。「もう終わり、もう終わり」。最期につぶやいた。一郎さんは言う。「父の中では戦後も戦争が続いとったんやろうな。戦争も自分の命も、もうこれで終わりという意味だったんやろう」

戦禍に巻き込まれても「身動き取れず」

 軍人だけでなく、一般住民9万人以上が戦闘に巻き込まれて亡くなったとされる太平洋戦争末期の沖縄戦。「鉄の暴風」と形容される米軍の激しい砲爆撃の中で障害がある人々がどんな状況にあったのか、沖縄県史は「全体像を理解するにはあまりにも残された証言が少ない」と記す。

 県史では市町村史を引用する形でいくつかの証言を紹介している。視覚障害者は親族や家族に手を引かれ逃げ回ったが、「一人になると逃げることも隠れることもできず、砲弾が飛び交っているのが聞こえても身動きが取れない」とする。聴覚障害者は米軍機の来襲に気付かず、空襲で街が騒ぎになっていることを知らなかった人もいたという。

 執筆を担当した沖縄国際大の非常勤講師、伊佐真一朗さん(37)=沖縄近現代史=は「沖縄戦の調査研究からこぼれたものは少なくなく、その一つが障害者の記録だった」と指摘する。

 伊佐さんは県史に「今なお『語られない戦さ場』があることの表れではないか」と記した。「戦争や災害などの混乱の中では弱い立場の人の声は後回しにされてしまう。有事に誰がどういうふうに困り、どう助け合う必要があるのか、検証し、歴史的教訓として受け止めなければならない」と話す。【山口桂子】

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