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沖縄戦で最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園には23日朝から多くの遺族らが訪れ、犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」の前で手を合わせた。宜野湾市の具志堅哲(てつ)さん(70)もその一人。今年新たに刻まれた兄の清さんの名前を指でなぞり、「これからは家族をここに連れてきて、平和を考える機会にしたい」と語った。
平和の礎には沖縄戦で亡くなった沖縄県民や日米英軍の兵士などの他、1931年の満州事変以降に戦争が原因で亡くなった県出身者の名前が刻まれる。今年は新たに判明した55人の名前が加わり、刻銘者は24万1686人となった。
一家の長男だった清さんは両親とともに南洋諸島から鹿児島に避難したが、その約1年後の44年5月に3歳で亡くなった。家族は沖縄戦が終結した後に地元の沖縄県本部(もとぶ)町に戻った。52年に四男として生まれたのが哲さんだった。
哲さんが幼い頃も近くの山には沖縄戦の犠牲者とみられる遺骨があり、薬きょうが道に埋まるなど戦争の爪痕が残っていた。父は結核で病床に伏し、母が一家を支えた。清さんのことは「栄養失調で亡くなった」とも「病気だった」とも聞いたが、生活に余裕はなく、詳しい話を聞いた記憶はない。三男も戦後、病死し、母は残った次男を長男、哲さんを次男と呼んだ。
95年に平和の礎が建設された時、哲さんは親族に戦死者がいるか考えたが、「清のことは思い出さなかった」。だが、5年ほど前、沖縄戦の直接の犠牲者でなくても刻銘できることを知り、今年、登録を申請した。「顔を見たことがなくても、兄弟として生きた証しを残したい」と思ったからだ。
哲さんには6人の子供と7人の孫がいる。平和な暮らしのありがたさを感じる。「清のように(争いに)全く関係のない子供が亡くなるのが戦争。清の名が刻まれたことで、孫も成長とともに平和を考えてほしい」。兄のためにも、子や孫のためにも戦争のない世界が続くことを願う。【宮城裕也】
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