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沖縄戦

「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦から77年。約3カ月に及んだ地上戦は住民を巻き込み、日米合わせて計約20万人が犠牲となった。

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米軍に育ての親奪われ 基地で働き 「アメリカ世」一人生き抜く

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大叔母の長嶺菊枝さんの名前が刻まれた「平和の礎」を訪れ、手を合わせる山田芳男さん=沖縄県糸満市で2022年6月23日午後3時38分、竹内望撮影
大叔母の長嶺菊枝さんの名前が刻まれた「平和の礎」を訪れ、手を合わせる山田芳男さん=沖縄県糸満市で2022年6月23日午後3時38分、竹内望撮影

 学業の機会は戦争で失われ、育ての親は米軍の弾で命を奪われた。戦後はその米軍の基地で働き、「アメリカ世(ゆー)」を生き抜いた。那覇市の山田芳男さん(91)は23日、沖縄戦で亡くなった母校の先輩や教師たちを悼む慰霊塔を訪れ、しわが刻まれた手を合わせた。「自分に青春時代はあったのか。食うのに一生懸命だったんじゃないかな」

 日本統治下の台湾で生まれ、3歳の時に首里市(現・那覇市)の大叔母、長嶺菊枝さんの元に預けられた。1944年、県立第一中学校(現・首里高校)に入学したが、机で学んだのは3カ月ほど。まもなく校舎を日本軍の部隊が使用するようになり、生徒は飛行場の滑走路や高射砲陣地の構築などに駆り出された。「神国日本が勝つためには、当たり前だと思っていた」

 45年4月1日に米軍が沖縄本島中部に上陸し、自然壕(ごう)に避難した。4月末には米軍の攻撃が迫り、沖縄本島南部へ逃げた。大叔母らと一緒に日中は壕に身を潜め、闇夜に次の隠れ場所を探す。初めて遺体を見た後は食べ物が喉を通らなかったが、やがてあちこちに人が倒れている光景に慣れた。

 6月中旬、喜屋武(きゃん)村(現・糸満市)で艦砲射撃に襲われ、丸太のように転がっているものを飛び越えて逃げた。翌日戻ると、それは行動を共にしていた大叔父の大山朝功さん(当時53歳)だった。近くの畑に埋葬した。6月22日夜、沖縄本島北部に逃げようと摩文仁(まぶに)の壕を出たところで米軍の捕虜になった。

 「おなかが痛い」。翌日の明け方、そう訴える大叔母の着物をめくると、腸が飛び出ていた。壕を先に出た際に米軍の銃撃に遭ったようだった。助からないと覚悟したが、何も言えず、涙を流しながら背負って捕虜の列を歩いた。山田さんの背中に血がべっとり付いた。

 苦しかったのだろう。大叔母は「殺して」と懇願した。「そんなこと言わないで。助けるから」となだめたが、治療を施すことはできなかった。…

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【沖縄戦】

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