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学業の機会は戦争で失われ、育ての親は米軍の弾で命を奪われた。戦後はその米軍の基地で働き、「アメリカ世(ゆー)」を生き抜いた。那覇市の山田芳男さん(91)は23日、沖縄戦で亡くなった母校の先輩や教師たちを悼む慰霊塔を訪れ、しわが刻まれた手を合わせた。「自分に青春時代はあったのか。食うのに一生懸命だったんじゃないかな」
日本統治下の台湾で生まれ、3歳の時に首里市(現・那覇市)の大叔母、長嶺菊枝さんの元に預けられた。1944年、県立第一中学校(現・首里高校)に入学したが、机で学んだのは3カ月ほど。まもなく校舎を日本軍の部隊が使用するようになり、生徒は飛行場の滑走路や高射砲陣地の構築などに駆り出された。「神国日本が勝つためには、当たり前だと思っていた」
45年4月1日に米軍が沖縄本島中部に上陸し、自然壕(ごう)に避難した。4月末には米軍の攻撃が迫り、沖縄本島南部へ逃げた。大叔母らと一緒に日中は壕に身を潜め、闇夜に次の隠れ場所を探す。初めて遺体を見た後は食べ物が喉を通らなかったが、やがてあちこちに人が倒れている光景に慣れた。
6月中旬、喜屋武(きゃん)村(現・糸満市)で艦砲射撃に襲われ、丸太のように転がっているものを飛び越えて逃げた。翌日戻ると、それは行動を共にしていた大叔父の大山朝功さん(当時53歳)だった。近くの畑に埋葬した。6月22日夜、沖縄本島北部に逃げようと摩文仁(まぶに)の壕を出たところで米軍の捕虜になった。
「おなかが痛い」。翌日の明け方、そう訴える大叔母の着物をめくると、腸が飛び出ていた。壕を先に出た際に米軍の銃撃に遭ったようだった。助からないと覚悟したが、何も言えず、涙を流しながら背負って捕虜の列を歩いた。山田さんの背中に血がべっとり付いた。
苦しかったのだろう。大叔母は「殺して」と懇願した。「そんなこと言わないで。助けるから」となだめたが、治療を施すことはできなかった。…
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