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東日本大震災

2011年3月11日に発生した東日本大震災。復興の様子や課題、人々の移ろいを取り上げます。

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「どうすんべな」急変する古里に戻る、戻らない……揺れる71歳

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雑草が茂る自宅の庭で、わずかに残ったバラを支柱に結わえる山本三起子さん=福島県大熊町で2022年5月31日午後1時31分、尾崎修二撮影
雑草が茂る自宅の庭で、わずかに残ったバラを支柱に結わえる山本三起子さん=福島県大熊町で2022年5月31日午後1時31分、尾崎修二撮影

 「私、なんでここにいるんだろう」。福島県会津若松市の山本三起子さん(71)は、しばしばそんな思いに襲われる。古里は東に100キロ離れた県内の大熊町。ハンドルを握って片道約2時間の距離だ。今でも年に何回かは自宅を訪れる。でも、変わりゆく町並みを目の当たりにすると、帰りたい気持ちは薄らぐ。

 1カ月前。久しぶりに大熊町の自宅を訪れた。ドアを開けて土足で上がり、風を通すために窓を開ける。植木鉢の草花は枯れ、棚から落ちて割れた食器が床に散乱している。片づける意欲も湧かず、10年以上手つかずのままだ。自慢だった庭のバラはほぼ枯れ、かつて周囲にあった家々は軒並み取り壊された。

 山本さんは大熊町生まれ。地元の高校を出て就職した。夫(80)とともに一人娘を育て、ママさんバレーに婦人会、婦人消防隊の活動にも積極的に関わった。20年ほど前、共働きでためたお金で念願のマイホームを新築した。「自分の人生そのもの」という一軒家は、庭に150本近いバラが咲き誇り、近所の人から「バラ屋敷」と呼ばれた。

 2011年の東日本大震災、そして東京電力福島第1原発事故が全てを変えた。全町民が避難を余儀なくされ、山本さんは各地を転々として会津若松市にたどり着いた。ほどなく味覚障害や頭痛にさいなまれ、歩く気力もなくなった。11年秋には適応障害と診断された。市内のアパートなどに避難し、孤立しがちな町民同士が親睦を深められるよう、13年春に仲間たちと「おおくま町会津会」を作った。お茶を飲んで近況を報告し合い、旅行や手芸を楽しむようになった。

 一時立ち入りで訪れた我が家は、地震により家財道具が散乱していたが、建物の損傷はなかった。イノシシに屋内を荒らされたり、空き巣に入られたりもしていなかった。

 転機は17年11月、自宅を含む大熊町の中心部が、特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定されたことだ。優先的に除染が進められ、避難指示も解除される見通しとなった。前年の16年には会津若松市で、娘夫婦らの家の近くに自宅を再建したばかり。「戻れるの?」と心は揺れた。

 復興拠点内の自宅は、環境省から無償での解体を提案された。だが、住める家を壊すのはしのびない。「壊すことはないべ」。夫と意見が一致し、自宅は除染をして残すことにした。

 町は帰還する町民が少ないことを見越して、町中心部だったJR大野駅前の商店や宅地を買い取って再開発に乗り出した。よく知る建物は次々と取り壊されて更地に。20代の頃、原発の誘致で立派な建物や道路が次々と整備された時期の記憶が脳裏をよぎった。

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【東日本大震災】

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