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凄惨(せいさん)な被爆体験をつづった母の手記は長い年月を経て、ようやく日の目を見た。「こんな立派なものができるとは思ってなかったよね。喜んでくれてる?」。神戸市垂水区の浜口幸子さん(74)は兵庫県遺族代表として6日の広島・平和記念式典に初めて参列し、今は亡き母に報告した。
母・梶原都子(みやこ)さんの手記「こんな話がわかりますか」(兵庫県被爆二世の会)は1年前の2021年8月6日に出版された。


浜口さんの父雪夫さんと、都子さんは1945年8月6日朝、爆心地から約5キロの自宅にいた。手記には、衣服もボロボロ、息もたえだえの大勢の人が泣きもせず、トボトボと歩いている光景が描かれている。「気持ちが悪いというより、不思議なものを見るようでした」
寮の管理人をしていた雪夫さんは寮の住人を捜しに出かけ、当時妊娠4カ月の都子さんが自宅に残された。「一人、戸も窓もない家に座っていたが、風が吹けば死体を山積みにして焼く臭いで吐いていた。風下になると臭いが流れて来て、怖さに震えておりました」
都子さんは翌46年1月、男児を産んだ。章義と名付けたが、14日後に亡くなった。悲しみにくれた都子さん。手記に我が子の死を書き残すことはなかった。
手記を残した意図については「原爆の恐ろしさを皆さんに知っていただき、生きている者が、共に核反対を訴えねばならない」と書かれている。手記は、都子さんが便箋に書きためて自宅に保管され、人目に触れることはなかった。
一転、世に出ることになったきっかけは、浜口さんの身内の相次ぐ不幸だった。雪夫さんは胃がんや肺がんを患い、77年に60歳で死去。10年、浜口さんの2歳下の弟もがんで60歳で死亡し、都子さんは12年に90歳で亡くなった。
「次は私の番か」。元気なうちに母の体験を継承しようと浜口さんは20年、兵庫県被爆二世の会に入った。入会の際、「母の書いた手記を読むことぐらいならできます」と説明し、会から出版を勧められた。
A5判20ページの冊子には、9ページにわたる都子さんの手記のほか、被爆前後の個人・家族写真、家族の思い出を記した浜口さんの文章、被爆の惨状を描いた絵なども収録されている。
式典に臨んだ浜口さんは「原爆の恐ろしさを伝えていかないといけないという母の考えは、本当にそうやなと思う。手記が核廃絶の取り組みに役立ってほしい」と願った。【手呂内朱梨】
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