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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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母が友と交わした手紙は「招待状」 半世紀ぶりの広島で祈る平和

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「同級生と交わした手紙」を手に「広島原爆の日」を前に原爆慰霊碑を訪れた岐阜県遺族代表の住野幸子さん=広島市中区で2022年8月5日、山田尚弘撮影
「同級生と交わした手紙」を手に「広島原爆の日」を前に原爆慰霊碑を訪れた岐阜県遺族代表の住野幸子さん=広島市中区で2022年8月5日、山田尚弘撮影

 「安らかに眠ってください。ここに連れてきてくれてありがとう」。6日の広島・平和記念式典に岐阜県遺族代表として初めて参加した住野幸子さん(66)=同県可児市=は原爆慰霊碑に手を合わせ、2021年9月に90歳で亡くなった母に語りかけた。かばんには1通の封筒をしのばせていた。住野さんにとっては、母から届いた式典への「招待状」だった。

 母の向後(こうご)龍子さんは広島市から北東約70キロの広島県庄原市で生まれ育った。原爆投下当時は山内東国民学校(現・庄原市立東小)の高等科2年生。約5キロ先にあった別の国民学校が臨時の病院となり、運ばれてきた被爆者の救護を同級生15人で手伝った。傷口にたかるハエを払い、ウジ虫を取り除いた。

 住野さんは「母は当時の体験を進んで話すことはなかったが、『強烈な臭いの中で救護に当たった』と言うのを聞いた。ずっと心の傷になっていたと思う」と推し量る。

 龍子さんの死去後、住野さんは、被爆者認定を巡る母の対応を初めて知ることになる。可児市にある実家の片付けをしていると、押し入れの中からA4判の茶封筒を見つけた。中には00年ごろ、高等科時代の同級生から龍子さんに届いた手紙が数通入っていた。

手紙を原爆慰霊碑の前で読む住野幸子さん=広島市中区の平和記念公園で2022年8月6日午前9時17分、滝川大貴撮影
手紙を原爆慰霊碑の前で読む住野幸子さん=広島市中区の平和記念公園で2022年8月6日午前9時17分、滝川大貴撮影

 当時、同級生たちは、被爆者を救護する際に放射能の影響を受けたとして、被爆者健康手帳の申請手続きで協力し合っていた。手紙は同級生が龍子さんの申請を手伝おうと送ってきたものだった。

 手帳の交付を受けるには、被爆した事実を裏付ける記録などを提出するか、提出できない場合、2人以上の証人が必要となる。手紙には「(証人になるよう高等科時代の)先生と連絡を取ってくれてありがとう」などと、申請に向け準備をする龍子さんへの謝意がつづられていた。00年、龍子さんは手帳を取得した。

 手紙の存在を知ったのと相前後して、住野さんの元に5~6月ごろ、岐阜県から1通の通知が届いた。今夏の広島の平和記念式典に県遺族代表として参列する意向があるかどうかを照会するものだった。「今年は母の初盆。見つかった同級生からの手紙は母から届いた式典への招待状に思えた」。8月6日の式典参列を迷わず決めた。

 住野さんは3歳まで両親と広島市で暮らした後、愛知や岐阜に転居し、広島を訪れたのは20歳が最後だった。しかし、ロシアによるウクライナ侵攻のあった今年、「ヒロシマを忘れちゃいけない」と強く意識するようになっていた。

 式典では、新たに龍子さんの名前も記された原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められた。住野さんは様子を見届け、「母だけではなく、犠牲になった大勢の人に祈りをささげた。まだ幼い孫がもう少し大きくなったら、広島に連れて来て、ここにひいばあばの名前も入ったんだよと伝えたい」と語った。【根本佳奈】

【広島・長崎原爆】

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