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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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「国は逃げようとしている」 “黒い雨”救済待つ長崎の被爆体験者

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原爆投下後に灰や燃えかすが降ってきた体験を語る松田宗伍さん=長崎市で2022年6月29日午後3時34分、樋口岳大撮影 拡大
原爆投下後に灰や燃えかすが降ってきた体験を語る松田宗伍さん=長崎市で2022年6月29日午後3時34分、樋口岳大撮影

 広島原爆では、黒い雨に遭ったという人たちが4月から被爆者として援護を受けられるようになった。あの日から77年目にしてやっとだ。だが、長崎で同じような経験をした人は国の援護から外されたままだ。広島、長崎で等しく被爆者援護法を適用すべきなのに、国はなぜ差をつけるのか。長崎の被爆体験者はやり切れない思いを抱いている。

 「原爆投下後、放射能のついた雪のような灰が降った。なぜ被爆者と認めてくれないのか」。長崎市松原町の松田宗伍さん(88)は憤る。長崎の爆心地から約9キロ東の旧古賀村で原爆に遭った。今も暮らすその地は国が指定した援護区域の外にあり、被爆者健康手帳が交付されていない。

 1945年8月9日午前11時2分、旧日本海軍の航空母艦に乗務中に戦死した長兄の初盆を迎えるため、墓で準備をしていた。飛行機の音がしたかと思うと強烈な光線に見舞われ「ドドーン」という爆音が聞こえた。

 急いで家に帰ると空がどんより暗くなった。太陽が煙に巻かれたようにぼんやりとしか見えなくなり、燃えかすや灰が降ってきた。次兄が動員されていた三菱重工長崎兵器製作所大橋工場(爆心地の北約1・2キロ)の工場名が印字された書類の燃えかすが落ちてきたのを見て、母は「やられたんじゃないか」と表情を曇らせた。

 深刻な食糧難の中、灰にまみれた野菜だけでなく、本来は食べられないジャガイモの葉や道端の雑草まで口にして飢えをしのいだ。水くみ場では、浮いた灰をよけながら飲み水をくんだ。

 広島原爆の援護区域外で黒い雨に遭った住民の訴訟で、広島高裁は2021年7月、原告84人全員を被爆者と認めた。判決は、雨に打たれていなくても、空気中の放射性微粒子を吸ったり、付着した野菜を食べたりして体内に取り込む内部被ばくで「健康被害が生じることが否定できない者」は被爆者だと明言した。まさに松田さんが長崎で体験したことだ。しかし、長崎は救済対象から除外された。広島でも雨以外の灰などに遭った人は救済されていない。

 旧古賀村では雨の証言があるが、松田さんは経験していない。「夏の入道雲の雨は局地的で『夕立は馬の背を分ける』と言うほどだ。雨にも灰にも放射性物質が含まれていたのに、雨が降ったところは救済する、降っていないところは救済しないというのは、国の言い逃れでしかない」

 いつになったら被爆者と認められるのか。被爆後、病弱な父は連日、次兄を捜しに行ったが見つからず、母は11歳の松田さんに「ついて行ってくれろ」と頼んだ。松田さんは原爆投下から1週間後の爆心地周辺で次兄を捜し回ったが、見つからなかった。

 松田さんはこれまでに数回、入市被爆としての手帳交付を申請したが、却下された。子供が結婚などで差別を受けることを恐れた父が「子供は被爆していない」と届け出ていたためだった。

 8年前に心臓大動脈弁の手術を受け、人生の残り時間を意識している。手帳交付を求めて訴訟を続けているが、最初の提訴からもう15年。「国は解決を長引かせて、逃げよう、逃げようとしている」。あの日見上げた空を見つめ、ため息をついた。【樋口岳大】

【広島・長崎原爆】

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