連載

残像・戦争の記憶と記録

77年前に終わった戦争の記憶と記録は今、どれだけ残っているのでしょう。戦時中の記者たちが遺したものから考えました。

連載一覧

残像・戦争の記憶と記録

そこにいるはずのないカメラマン 残した「玉音放送、その時」の謎

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
1945年8月15日、東京・四谷で撮影されたという写真。同様の写真が翌16日の毎日新聞朝刊に掲載された
1945年8月15日、東京・四谷で撮影されたという写真。同様の写真が翌16日の毎日新聞朝刊に掲載された

 1945年8月15日、国内外で多くの犠牲者を出した太平洋戦争は終わりを告げた。悲しみに打ちひしがれた人もいれば、葛藤にさいなまれた人もいた。出征した海外の戦地をさまよい、終戦を知らずにいた人も。

 これまで信じてきたものがひっくり返ったあの日の東京の様子を記したメモが、その時そこにいるはずのなかったカメラマンの自宅で見つかった。「8・15」にまつわるメモを手に、当時を生きた人や遺族を訪ねた。【椋田佳代/東京社会部】

 連載「残像・戦争の記憶と記録」は、全5回です。
 このほかのラインアップは次の通りです。
 第1回 「特攻と桜」は悲劇を映す
 第3回 漫画「セレチャン」知ってますか?
 第4回 南京、レンズ越しの「真実」は語る
 第5回 そして従軍日誌だけが残った

その場を見たからこその言葉

 青いペンで走り書きしたような文字。推敲(すいこう)したのか、書き直した跡もある。書き出しは「その日、昭和二十年八月十五日」。1945年のこの日、日本は太平洋戦争に負けた。便箋7枚にわたり、敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送を聞く人々の姿を撮影した胸の内が率直につづられている。

 このメモは、元毎日新聞カメラマン、染谷光雄さん(2006年に86歳で死去)が暮らした千葉県柏市の一軒家にあった。記者が訪ねた5月、大量の古い報道写真の中に埋もれていたのを三女の阿部玲子さん(66)らとともに見つけた。

 戦後しばらくして書かれたとみられ、「私は玉音放送を聞く国民の表情を取材するため、焦土と化した四ツ谷付近に自転車をとばした」「はじめて聞く陛下のお声……。みんな泣いていた。撮影していた私のカメラのファインダーもくもって見えなかった」と続く。

 「本当にお父さんが書いたのかな」。玲子さんは首をかしげ、父のたどった道のりを話してくれた。

 染谷さんは43年、ビルマ・ラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)に赴任し、多くの犠牲者を出したインパール作戦に戦場報道隊員として従軍した。戦争協力したとされ一時公職追放になった芥川賞作家、火野葦平(06~60年)の従軍手帳にも染谷さんと思われる「寫真(写真)染谷君」らが雨期の川から引き揚げてきた、との記述がある。

 その後現地召集された染谷さんは終戦前後、タイとビルマの国境付近をさまよっていた。次女の鈴木恵子さん(70)も在りし日の父からこう聞いた。「(終戦を知らずに潜伏した)横井庄一さんのようにずっとジャングルを逃げ回ることになっていたかもしれない」

 染谷さんは戦争が終わった日、日本にいなかったことは間違いなさそうだ。では、このメモは誰が書いたのか。記者はその手がかりを探した。

皇居前の葛藤

 77年前の毎日新聞をめくると、東京・四谷でラジオを囲んで玉音放送を聞く人たちの写真が8月16日の朝刊に載っていた。社内で詳しい人たちに聞いて回ると、東南アジアで特派員を務め、終戦時は有楽町の本社で勤務していた佐藤成夫さん(89年に80歳で死去)の名前が挙がっ…

この記事は有料記事です。

残り1351文字(全文2605文字)

あわせて読みたい

マイページでフォローする

この記事の特集・連載
すべて見る
この記事の筆者
すべて見る

ニュース特集