1969年「ハンパク」 見直し始まるカウンターカルチャーの祭典
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「ハンパク」という言葉を聞いたことがあるだろうか。1960~70年代を知る人なら、懐かしく思い出すかもしれない。大阪万博を翌年に控えた69年8月、市民らの手で反戦・カウンターカルチャーの祭典が開かれた。ベトナム反戦運動に取り組む若者らの発案から始まり、炎天下の大阪城公園に5日間で延べ数万人が集まったという一大イベント。ただ、その全容は主催者によっても記録されていない。今、当時を直接知らない世代から、現在につながる出来事として再検証しようという動きが始まっている。
「民衆の万博」大阪城公園に数万人
ハンパクは「反戦のための万国博」の略称。1万坪とされる会場では、知識人らの討論会、各地の社会問題の訴え、フォークソング集会、映画、演劇、前衛アートなど多種多様な展示やプログラムが繰り広げられた。その開催は当時の議論のなかで「大阪万博は安保問題を覆い隠すイベントだ」といった批判を含んでいたが、単に万博反対を主張するものではなかった。
発端は69年初めごろ。各地で発足・活動していたベトナム戦争に反対する市民団体「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)のうち、南大阪ベ平連の若者たちが「反戦万博」を発案した。話が全国規模に広がる過程で、ベ平連代表の作家、小田実(まこと)が「『万博に反対』だけでは意味が小さくなる。もう一つの、民衆の万博をやるんだ」と力説し、賛同を集めたという。
大阪の繁華街、梅田地下街や天王寺でフォーク集会を開くなどしていたベ平連メンバーが中心になって主催団体「ハンパク協会」をつくり、広大な会場を借りることに成功した。大阪城天守閣の東側にあたるこの一帯は、明治期からアジア最大規模の軍事工場「砲兵工廠(こうしょう)」があった場所。玉音放送の前日、…
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