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残像・戦争の記憶と記録

77年前に終わった戦争の記憶と記録は今、どれだけ残っているのでしょう。戦時中の記者たちが遺したものから考えました。

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残像・戦争の記憶と記録

戦争語れなかった未完の自叙伝 従軍日誌だけに残した言葉

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安田清一さんのアルバムに残されたブキテマの様子を伝える写真=遺族提供
安田清一さんのアルバムに残されたブキテマの様子を伝える写真=遺族提供

 日本が起こした戦争は世界の各地を戦渦に巻き込み、多くの犠牲を生んだ。その悲劇の始まりに立ち会った時、何を感じ、どう思ったのだろう。20代の若さで太平洋戦争の開戦とともに前線で取材にあたったあるカメラマンは、多くの写真とともに、日々の状況を記録した従軍日誌を残していた。その中で親しい人への遺言をしたため、命が脅かされた経験も書いていた。

 私たちの生きる時代では、ロシアがウクライナへ侵攻した。影響は世界に広がり、日本も無関係ではいられない。戦争は遠く、教科書の中のお話だと思っていたが、決してそうではないと感じるようになった。戦時下の記者が残した日誌には、母国がまさに開戦へと踏み出す時に漂う空気、戦争を知らない世代への教訓が示されているのではないだろうか。そんな思いで、手に取った。【森口沙織/大阪社会部】

 連載「残像・戦争の記憶と記録」は、全5回です。
 このほかのラインアップは次の通りです。
 第1回 「特攻と桜」は悲劇を映す
 第2回 「8・15」のメモをたどれば
 第3回 漫画「セレチャン」知ってますか?
 第4回 南京、レンズ越しの「真実」は語る

砲弾が左目をかすめ

 記者と同年代の28歳だったカメラマンは戦場へ向かう船中、何を思いながら記したのだろうか。表紙に「従軍日誌」と書かれた手帳には、こうつづられていた。「写真ニュースを迅速に送る事が重大指命なり」

 日付は1941(昭和16)年12月5日。3日後、英軍の重要拠点・シンガポールを目指し、日本軍はマレー半島に上陸した。日本はその直後、米ハワイ・真珠湾も攻撃した。こうして、太平洋戦争が始まった。

 毎日新聞のカメラマンだった安田清一さん(2000年に87歳で死去)は翌42年2月までマレー作戦に従軍。自転車で侵攻する日本の「銀輪部隊」や、砲弾が破壊した建物をカメラに収めていく。当時の紙面には「英空軍続々撃滅 マレー半島を躍進す」「新嘉坡(シンガポール)を猛爆撃」と勇ましい見出しが並ぶ。

 同じ5日の日誌には「運命はどうなるかも判(わか)らず、また強敵の弾に倒されるやも判らぬ」とあり、写真部の上司や妻、母親に宛てた短い遺言も記されている。一方で、日本軍の兵士が構えた銃の先にいた相手についての記述はほとんどなく、開戦後は戦況や自身の状況が日々記録されていた。

 42年2月12日は「忘れることの出来ない日」。安田さんの結婚記念日というその日、シンガポール中央部のブキテマで、砲弾が左目をかすめて負傷した。恐怖からだろうか、「もう書くことは出来ない」と続けた。前線から離れて治療中の2週間後には「早く快(よ)くなって一日も早く内地へ帰りたい気持ちで一杯だ」と吐露している。

 日誌からは、この戦争そのものを安田さんがどう思っていたのかまでは知ることができなかった。

 奈良県三郷町に住む安田さんの三…

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