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今年は文豪・森鷗外の没後100年です。私は高校の国語の授業で読んだ「舞姫」が心に残っていますが、皆さんはいかがでしょうか。作家と陸軍医の二足のわらじを履き、晩年に宮内省の高官を務めました。改ざんや廃棄を免れた100年前の公文書をたどると、新たな事実や業績が明らかになります。【論説室・野口武則】
鷗外が自ら「最大著述」と称したのは、遺作の「元号考」だった。大化から大正まで、日本の歴代元号の出典を調べたものだ。
近代日本を代表する文豪が、なぜ死の間際まで元号にこだわったのか。
陸軍を退官後の1917(大正6)年12月から22(大正11)年7月に60歳で死去するまで、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)を務めた。今の東京国立博物館(上野)と宮内庁書寮部(皇居内)の長である。
宮内公文書館が蔵する公文書に、鷗外就任前の大正改元が詳細に記録されている。長らく部外秘だった「大正大礼記録」(大正7年8月30日完成)は、平成期に閲覧できるようになった。以下のように、元号案の作成を命じられた5人の名前が記されている。
「内大臣秘書官長 股野琢
宮内省御用掛 多田好問
学習院教授 岡田正之
図書助 高島張輔
内閣書記官室事務嘱託 国府種徳」
いずれも漢籍や故実に詳しい宮内省と内閣の関係者だ。股野は帝室博物館総長も兼務し、戦前の学習院は宮内省の組織だった。また、当時の図書頭は漢籍専門家でなかったため、部下の図書助(すけ)が関わったようだ。内閣書記官室の国府を除く4人が、宮内省の肩書を持つ。
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