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1916(大正5)年3月、阪神電車は鳴尾競馬場の中に鳴尾運動場を開設する。馬券の販売禁止で遊休化した競馬場の活用策だった。馬が走るトラックの内部は広大だった。およそ14万5000平方メートルというから、後にできる甲子園球場の約4倍である。この広い敷地を利用して陸上競技場やプール、テニスコート、野球場2面が建設された。
嘉納治五郎が大日本体育協会を設立したのが11年。翌年日本は五輪に初めて陸上選手2人を派遣した。そのわずか4年後のことだ。日本のスポーツ黎明(れいめい)期にできた鳴尾運動場は、関西初の総合スポーツ施設でもあった。建設計画の中心人物は、後に甲子園球場建設に携わる阪神の取締役時代の三崎省三(せいぞう)だ。
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