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ペリーから逃れた岡山人・備中徳兵衛漂流記

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ペリーから逃れた岡山人・備中徳兵衛漂流記

/43 砲撃受けたモリソン号、帰国断念した日本人 /岡山

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徳兵衛の漂流記で、力松が語った「モリソン号事件」に触れた部分。「イキリス商船(実際は米国商船)」「浦賀」「石火矢(大砲)」「薩州」などの字が見える(岡山県津山市の津山郷土博物館提供)
徳兵衛の漂流記で、力松が語った「モリソン号事件」に触れた部分。「イキリス商船(実際は米国商船)」「浦賀」「石火矢(大砲)」「薩州」などの字が見える(岡山県津山市の津山郷土博物館提供)

 日本がまだ鎖国を続けていた170年前。1852年5月25日とみられる日、香港住民で英字紙記者をしていた長崎県出身の元漂流民・力松が、米国から中国に移送されて来たばかりの徳兵衛ら後輩漂流民たちに語った話を最も詳しく伝えているのは、鳥取県出身の文太(利七)の体験記「漂流記談」だ。

 文太が伝える話を中心に、前回紹介した力松の漂流仲間で熊本県出身の庄蔵や寿三郎がマカオから故郷に送った手紙を紹介・引用した資料や書籍、宮永孝氏の山本音吉に関する論文「“オットソン”と呼ばれた日本漂流民」(法政大学社会学部学会、2004年)などを参照すると、力松たちの漂流体験の概要は以下のようだったとみられる。

    ◇

 天保6年11月1日(1835年12月20日)、熊本、長崎両県出身の4人の海運関係者は、庄蔵の80石(12トン)積の小型船にサツマイモを積んで熊本県・天草を出港。長崎に向かったが、「かばしま(長崎県の樺島?)のはな」付近で吹き始めた大風のため、漂流した。35日間、海上を流され、うち13日は飲まず食わずの状態でフィリピンのルソン島東岸か、その付近の島に漂着した。

 現地で出会った肌が黒く、裸で暮らす人たちと手まねなどのボディーランゲージで会話し、わずかな食事などを与えられた。島民が船で送ると言い、木を切り倒して約60日かけて丸木舟を造った。その船で移動後、当時、フィリピンを支配していたスペインの出先機関関係者と見られる者たちに連れられ、奥深い山や谷を野宿しながら歩き、ヒルに悩まされるなどして数日かけてマニラに着いた。

 37年になり、スペイン政府関係者は日本人漂流民たちの扱いに困ったのか、彼らを船でマカオに送り、当時、マカオで暮らしていた宣教師で英国の出先機関の通訳だったギュツラフの家で愛知県出身の漂流民の音吉、久吉、岩吉の「三吉」たちと出会った。3月のことだった。

 三吉と力松ら九州4人組の日本人計7人は同年7月、「モリソン号」(564トン)という米国船(力松たちは英国船と思っていた)に乗せられ、日本に向かうことになった。米国商社「オリファント商会」の快速帆船だった。同社は中国で活動する米国商社の中で「唯一、アヘンを扱わない」という理想主義的経営で知られ、プロテスタント宣教師たちの活動支援でも有名だったという。同社の中国支配人や中国で活動する米国のプロテスタント関係者、通訳担当としてギュツラフも乗船し、江戸を目指した。

 漂流民の帰国を助けると同時に、通商や布教の手がかりを求めていたが、異国船打払令のため浦賀で砲撃を受け、鹿児島に向かった。そこでも砲撃され、モリソン号の日本人たちは帰国を断念した。

    ◇

 日本史年表では、この「モリソン号事件」は日本の蘭学者弾圧の「蛮社の獄」(39年)を引き起こすが、徳兵衛たちは、おそらく知らなかっただろう。徳兵衛は力松の体験談について、「漂流記」(岡山県津山市の津山郷土博物館蔵)ではごく短く、浦賀と鹿児島で砲撃されたことを伝えるのみ。「漂客夢物語」(愛知県西尾市岩瀬文庫蔵)は、「漂流記」よりは詳しいが、やはり日本で砲撃された話のみで、フィリピンでの体験談などはまったく出てこない。徳兵衛の関心が異国船打ち払いに集中していたためかもしれない。

 一方、文太は力松の体験談に続いて、ほかの栄力丸漂流民の体験記には出てこない話を、強い驚きを持って伝える。力松は、帰国は諦めて「此地へ留(とどま)り給(たま)へ」と、香港で生きることを栄力丸一行に勧めたというのだ。【小林一彦】=つづく

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