「ピンポン外交」立役者の妻 政争で不遇な「卓球人」支えた半生
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日中国交正常化50周年(29日)を前にした9月半ば、東京・浅草にある寺の室内納骨堂の前で、手を合わせる女性の姿があった。墓石には家紋代わりに卓球のラケットと球が描かれている。
「3本の線は3回の世界王者に輝いたこと、球はボールと地球を表しています。夫は卓球を通じて世界の平和に貢献したのです」
夫とは、中国の元卓球選手の荘則棟(そう・そくとう)さんのこと。1961年から世界選手権を3連覇した。冷戦下の米国と中国だけでなく、日本と中国も和解に導いた「ピンポン外交」の立役者とされる。
74年に中国でスポーツ大臣にあたる国家体育委員会主任に就任したが、文化大革命(文革)を推し進めた、いわゆる「四人組」との関係を問われ、公職を追われた。80年代に卓球指導者として活動を再開して、2013年に72歳で亡くなった。
「友好第一」「試合第二」
不遇だった後半生を支えた妻の佐々木敦子さん(77)が振り返る。「国のために全てを尽くした英雄。そして私にとっては優しくて穏やかな夫。何を作っても『敦子の作る料理はおいしい』と食べてくれる心の広い人でした」
荘さんの名は、71年3~4月に名古屋市で開催された卓球の世界選手権で世界的に知られるようになった。文革によって政治や経済、文化の交流まで閉ざされる中、6年ぶりに世界選手権に参加した中国は注目を集めた。当時の毎日新聞は「文革が中国選手団をどんなに変えたか、こんどの大会がそれをはっきり示すだろう」と伝えている。
「ピンポン外交」のきっかけとなる出来事が起きたのは4月4日だった。練習場から試合会場の愛知県体育館に向かう中国選手団のバスに、米国選手のグレン・コーワンさん(故人)が乗り込んでしまった。
バスはそのまま発車し、車内に気まずい空気が流れた。当時、中国にとって米国は「帝国主義」の象徴で、選手が米国選手と接触することは固く禁じられていた。だが、後方に座っていた荘さんはコーワンさんに近づいて握手し、錦織物をプレゼントした。翌日、コーワンさんは試合会場で荘さんにTシャツを渡した。
2人の交流は大きな反響を呼んだ。声を掛けた理由について、荘さんは当時の首相、周恩来の掲げる「友好第一、試合第二」の指示に従ったと説明している。
これが呼び水となり、米国選手団は大会後、北京に招かれた。緊張関係にあった両国の雪解けが進み、翌72年2月にニクソン米大統領が中国を訪れ、同年9月の日中国交正常化にもつながった。当時は「小さなピンポン球が大きな地球を動かした」と評された。
偶然とされる2人の出会いだが、仕組まれたと見る向きもある。英ジャーナリストのニコラス・グリフィンさんは自著「ピンポン外交の陰にいたスパイ」(柏書房)で「全体の筋書きは周到に練られていた」とし、「上からの許可なく明らかに政治的な行動をとるだろうか」と疑問を呈した。
だが、荘さんの人柄を知る佐々木さんは反論する。
「友好第一を掲げながら、誰も声を掛けないことに我慢ができなかったのでしょう。勇気は要ったでしょうが、あの人ならきっと声を掛けたはず。心の広い方だから」
「感恩(恩返し)」が口癖
強い絆で結ばれる夫婦が出会ったのは、この世界選手権だった。中国の選手団にひと目会わせてほしいとホテルに押しかけた佐々木さんに、荘さんが応対した。卓球に夢中だったわけでもない佐々木さんが、生活していた島根県から夜行列車で名古屋へ向かったのには理由があった…
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