出稼ぎ者の「赤ひげ」逝く 健診を24年続け…天明佳臣さんの信念

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天明佳臣さん=東京都江東区亀戸で2007年10月11日
天明佳臣さん=東京都江東区亀戸で2007年10月11日

 古里を離れて都会で働く出稼ぎ労働者たちに寄り添い、健康管理に尽くした医師が今年5月、亡くなった。横浜市の港町診療所の元所長、天明佳臣(てんみょうよしおみ)さん。90歳だった。秋田県出身者を中心に宿舎を訪ね歩き、多くの労働者に慕われた。晩年は出稼ぎを巡る課題を本にまとめる作業をしていた。仲間の医師たちが遺志を引き継ぎ、今秋の完成を目指している。

 「標準語で問診を始めても、秋田の方言で返事がくると、『お酒、なんぼ飲むんだー』『夜、トイレは何回行ぐな?』などと方言を交えて話していました」

 港町診療所の元看護師、保苅紀子さん(82)は1990年代にともに出稼ぎ者の宿舎を訪ねた天明さんの姿を思い出す。

 保苅さんは同僚の看護師、大島美智子さん(82)とともに、10人程度のカルテや採血用試験管、検尿の紙コップ、血圧計などを用意。診療所で通常の診察を終えた後の午後6時ごろ、天明さんと事務スタッフの計4人で最寄りの横浜駅から電車に乗り、主に神奈川県内の出稼ぎ者の宿舎へ向かった。

 宿舎の多くはプレハブ小屋。労働者が寝起きする大部屋には、壁際に布団がたたまれ、洗濯された下着やタオルがロープに干されていた。石油ストーブが暖める部屋で、道路工事やビル建設の現場から戻った人たちの血圧を測り、問診した。大島さんは「秋田で処方された薬をしっかり飲んでいるかも確認していました」と振り返る。

 農林水産省の統計によると、農村からの出稼ぎ者は60年代から増加し、ピークは72年の34万人。その後は減少が続いたが、平成に入った89年でも約6万人が働きに出て、日本の経済成長を支えてきた。農機具の機械化などに伴い支出が増え、農業収入だけでは家計を支えられなかった。一方で、農閑期に地元で働き口を得るのは難しかった。

 都市部では肉体労働を中心に多くの求人があったが、粉じんの多い場所や高所、地下などで不慣れな仕事をする人も多かった。賃金不払いが起きたり、就労先の健康保険に加入できなかったり――。なにより農繁期の重労働から体を休めずに寒空の下で働けば、けがをしたり体調を崩したりするリスクは高まった。

 天明さんたちは87~2010年度の24年間、秋田県内の市町村から委託を受け、出稼ぎ者の宿舎へ訪問健診を続けた。多いときには18市町村から委託を受けた。神奈川や東京のほか、千葉、茨城、埼玉へも訪問した。首都圏の医師や看護師ら約50人が活動に賛同し、手分けした。24年間で健診した労働者は延べ3400人以上に上った。

     ◇

 天明さんは東京で生まれ育った。農村の事情に詳しくなかったのに、なぜ、出稼ぎ者と関わるようになったのか。

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