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国民統合の象徴としての国葬 分断の象徴としての国葬

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国葬に伴う警備強化で屋上の開放中止を告知する掲示=東京都千代田区のパレスサイドビルで2022年9月27日、鈴木英生撮影
国葬に伴う警備強化で屋上の開放中止を告知する掲示=東京都千代田区のパレスサイドビルで2022年9月27日、鈴木英生撮影

 先週火曜日の昼休み。会社の屋上へ上がると、「国葬に伴う警備強化のため」閉鎖中でした。弔意を求められているわけでもないので、社内の資料室で暇を潰しましたが、なぜだかとても悲しい気分になり……。55年前の国葬を参照して、この気分のわけを考えます。【オピニオングループ・鈴木英生】

 さまざまな集団がタコツボ化した日本社会では、誰もが、自分たちこそ圧倒的な敵意に取り囲まれた弱者、被害者だと思い込んでいる--。今の「社会の分断」の話ではない。戦後を代表する政治学者、丸山真男が「日本の思想」(1961年)に書いている。

 例にあげるのが、戦後初期に首相を務めた吉田茂だ。吉田は、50年、南原繁東京大学長を「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」(真理にそむき時流や世間に気に入られる説を唱える人物)と批判して物議を醸した。丸山は、吉田の心中を想像する。自分たちは、南原ら進歩派に包囲されるなか、保守派の灯火を守っているのだと。安倍晋三元首相流に言えば、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」ということか。

 吉田は、労働組合指導者を「不逞(ふてい)の輩(やから)」呼ばわりしたり、野党議員に「ばかやろう」と言ったり、暴言を繰り返した。反吉田政権のデモも、今よりよほど殺伐としていた。参加者が火炎瓶を投げ、警官が発砲し、死者も出た。分断どころか騒乱状態である。

 吉田は、67年に戦後初の国葬となった。さぞ賛否が分かれただろうと当時の新聞をめくったが、批判は一向に出てこない。「サンデー毎日」には、著名人から庶民まで100人が「弔辞」を寄せていた。南原が「個人としてごめい福を祈って」いる。マルクス経済学者の向坂逸郎は吉田の「信念と力」を評価し、共産党幹部だった志賀義雄も「互いに人物を認め合って戦ってきた仲」とたたえた。

 吉田の死の直前には、佐藤栄作首相(当時)の東南アジア歴訪阻止を掲げたいわゆる三派全学連が、初めてゲバ棒を振りかざし、機動隊と大規模な市街戦を戦った。そんな状況でも、左派が吉田には弔意を示した。なぜ?

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