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私と我のはざまで

日本人としての「私」と、中国人としての「我(ウォー)」。そのはざまに立つ中国残留邦人3世たちの今を追います。

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一度変えた姓、私は「王」がいい 母、ルーツ…残留邦人3世の答え

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マイノリティーらの集まりで話す中国残留邦人3世の王幸美さん=東京都青梅市で2022年9月18日、前田梨里子撮影 拡大
マイノリティーらの集まりで話す中国残留邦人3世の王幸美さん=東京都青梅市で2022年9月18日、前田梨里子撮影

 幼い頃に使わなくなった「王(ワン)」という名字を、自らの意思で再び名乗り始めた。「日本育ちの中国ルーツ。こんな日本人がいてもええやん」。中国残留邦人3世の女性の決断は、母との長年のわだかまりをとくきっかけにもなった。

 王幸美さん(31)=東京都=は、中国・内モンゴル自治区で生まれた。3歳だった1994年、その数年前に日本へ帰国した中国残留邦人の祖母を追って、2世の母と中国人の父とともに来日した。当時の名前は王芸昆だった。

国籍取得では変わらなかった

 関西の保育園に通っていた時、先生が母に「差別を受けないように」という配慮から、日本名への変更を勧めた。それからは、祖母の名字を通称として名乗るようになった。名前は祖母が「幸美」と名付けてくれた。中国語で「幸せで円満な」という意味がある「幸福美満」という言葉から取ったのだと聞いた。

 「君って帰国子女なん?」。小学校に入って同級生からそう声を掛けられ、自身のルーツを改めて意識させられた。日本と日本人になじもうと、必死になった。それでも、海外へ向かう高校の修学旅行では、国籍が違うため空港の外国人通用口を通らざるを得ず、暗い気持ちになった。大学進学を機に、両親に訴えて日本国籍を取得する。「これで晴れて日本人になれる」。そう思ったものの、日常に変化はなかった。

 「多民族国家なら、自分と同じような人もいるんじゃないか」。そんな思いから米国の大学に留学し、マイノリティーの視点からその国の歴史や文化を学ぶ「エスニック・スタディーズ」というコースを履修した。自分の生い立ちを、クラスメートの前で紹介する授業があった。

マイノリティーらの集まりで話す中国残留邦人3世の王幸美さん=東京都青梅市で2022年9月18日、前田梨里子撮影 拡大
マイノリティーらの集まりで話す中国残留邦人3世の王幸美さん=東京都青梅市で2022年9月18日、前田梨里子撮影

 「Who am I?(私は誰?)」

 そう自らに問いかけ、中国人家庭らしいお弁当や両親の中国なまりの日本語を、恥ずかしいと思ってきたことを告白した。親を恥ずかしいと思う自分が、ずっと嫌だった。話しながら自然と涙が出ていた。韓国系移民の学生が、キムチの入ったお弁当のにおいをからかわれたりしていたことも知った。「自分は特別じゃなかった」。中国という自身のルーツを受け入れるきっかけになった。

「言えなかったことたくさん」母も

 米国の大学を卒業後、帰国して上京し、外国ルーツの子どもを支援するNPOに就職。中国語を本格的に勉強した。両親の言うことは何となく理解できても、自分の言いたいことが深く伝えられていないと感じてきたからだ。2018年、家庭裁判所の許可を受けて、名字を王に戻した。日本と中国、両方の名前を残したくて、「幸美」はそのままにした。

 「どうしてまた中国名にするの」。戸惑う母に、幼い頃から日本社会になじもうとする一方、周囲と違うことがずっと苦しかったと打ち明けた。10代の頃、悩みを伝えた母に「考えすぎよ」と言われてつらかった、心の内もさらけ出した。

 「かまってあげられなくてごめんね」。慣れない日本で共働きしながら必死に生きてきた両親の苦労が浮かんだ。母は続けた。「私も幼い頃、中国にいた時に母親が日本人と知って、すぐに受け入れられなかったの。言えなかったことがたくさんあるから、少しずつ話そう」。母とのわだかまりがとけた瞬間だった。

 王さんは現在、外国人材のキャリアを支援する企業で働く。その傍ら、米国留学で経験したような、マイノリティーが思いを打ち明け合える場所を作りたいとずっと思ってきた。9月中旬。その初めての会を開き、ルーツも年代もさまざまな7人が集まった。参加者の一人は「初対面でも、自分の内面を話せた」と表情を和らげた。「身近なところから生きやすい社会につなげていきたい」。王さんは手応えを感じている。

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 日本人としての「私」と、中国人としての「我(ウォー)」。そのはざまに立つ中国残留邦人3世たちの今を追った。【飯田憲】

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