「ジグザグでも前進」服部剛丈さん両親、銃規制への願い次世代と

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葬儀に参列した人にあいさつする父親の服部政一さん(左から2人目)と遺族ら。受付には「米国家庭から銃撤去求める請願書」が置かれ、参列者が署名していた=名古屋市港区で1992年10月
葬儀に参列した人にあいさつする父親の服部政一さん(左から2人目)と遺族ら。受付には「米国家庭から銃撤去求める請願書」が置かれ、参列者が署名していた=名古屋市港区で1992年10月

 たとえ微力だったとしても、決して無力ではなかったはずだ。1992年10月に米国留学中だった名古屋市の高校生、服部剛丈(よしひろ)さん(当時16歳)が射殺された事件は、まもなく発生から30年を迎える。剛丈さんの両親は、銃規制の強化と相互理解の大切さを、地道に訴えてきた。「皆が安心して暮らせる社会になるよう、命を大切にする若者が日米両国で増えてほしい」。思いが次世代に受け継がれることを願っている。

 「『じゅうさつ』と言われたが、一瞬、何のことか分からなかった」。一報を受けた父政一さん(75)は、すぐに事態をのみ込めなかった。それだけ聞き慣れない言葉だったからだ。

 剛丈さんは、ハロウィーンパーティーの訪問先を間違え、仮装姿に驚いて拳銃を持ち出した住人の男性に撃たれた。男性は「フリーズ(動くな)」と警告したが、剛丈さんが近寄ったため発砲したと「正当防衛」を主張したのだった。

 通夜の日から署名活動を始めた政一さんと母美恵子さん(74)は、支援者らと「YOSHIの会」を結成して米国の家庭からの銃撤去を求めた。93年11月にはクリントン大統領(当時)と面会し、日米で集めた約182万人分の署名の一部を手渡した。同月末、銃購入に一定の規制を設ける「ブレイディ法」(2004年に失効)が成立した。

 米国ではその後も、何度となく銃乱射事件が発生した。そのたびに銃規制強化を求める声が上がるが、根深い党派対立の前に実効性のある規制は阻まれる。そんな繰り返しだった。

 今年6月、上下両院が超党派で可決した銃規制強化法案に、バイデン大統領が署名して同法が成立。連邦レベルで銃規制法が制定されたのは、ブレイディ法以来、28年ぶりだった。

 服部さん夫妻は、これまでの銃規制運動を振り返り「ジグザグだったが、少しずつ前進してきた。30年前と違い、最近は若い人たちも声を上げている」と評価する。18年にフロリダ州の高校で起きた乱射事件に抗議するデモに参加した若者は、全米各地で100万人規模に膨れ上がった。

 剛丈さんは米国に強い憧れを持っていたという。夫妻は93年、息子の生命保険金などを基に「YOSHI基金」を設立。米国の高校生を日本に招いて銃のない社会を経験してもらい、事件の背景にある文化の違いについて伝えてきた。

 日米の懸け橋になることを願って支援した留学生はこれまで31人を数える。

 「どこの国へ行くにしても、その国を第二の故郷と呼べるようになれば素晴らしい」。剛丈さんは、米国留学を仲介した団体の質問用紙に、こう記した。「剛丈も生きていたら、懸け橋となる存在になっていたのかな」(美恵子さん)

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