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なぜ政治を“まつりごと”と呼ぶのか。「祭政一致だった古代の名残」くらいに思っていたが、安倍晋三氏が首相と元首相の間を行き来したこの15年余りで、筆者の認識は改まった。まつりごととは、「誰かをみこしに担いで、皆で祭り上げる」ことだったのだ。
信長・秀吉・家康は、自力で天下を取った。しかし後継の将軍たちを祭り上げる体制を築かなかったら、江戸時代の太平はなかっただろう。同じく明治天皇を祭り上げなかったら、維新とその後の近代化は難しかったのではないか。だが昭和天皇を祭り上げたのに、対米戦争には勝てなかった。そのため戦後改革とその後の経済成長は、無数の者たちの自立した努力が引っ張った。しかしそれが限界を迎えた時点で、またまた日本の振り子は、「誰かを祭り上げてみようか」という方向に振れたようだ。
祭り上げられるみこしにしてみれば、権威はまとえるものの、己の意に反することにまで賛同を強いられがちだ。だからこれは、ポリシーを持つ者より持たない者、権力欲(実権を行使する欲求)はないが権勢欲(担ぎ上げられ、そんたくされたいという欲求)は強い者に、適任のポストである。他方で、みこしを担ぎつつ物事を動かすのは、権勢欲よりも権力欲の強い者たちだ。彼らにとって、皆を祭り上げに巻き込んで異論を封じる政治手…
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