「心臓とハート」二つを胸に生きていく 罪悪感を救ったひと言
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心臓は、自分のものではない。数年前に「知ることのできない誰か」から移植され「二つの心臓」のリレーで命をつないでいる。
神奈川県の二宮町立二宮西中体育館で今年7月12日、広島市の元高校教諭、森原大紀(だいき)さん(33)が2年の生徒に語り掛けた。
「みんなにとって好きなことって何かな?」。生徒に次々と発表させていき、会場の一体感が増したところで切り出した。「病気知らずだったのに突然心臓病だと言われ、人生が180度変わりました」
幼い頃からレスリングに夢中だったこと、そして発病、待機期間を経て、心臓移植へ――。生徒たちは森原さんを見つめ、言葉をかみ締める。講演は臓器移植をテーマにした「いのちの教育」の一環だった。「一人では生きていけないということを伝えたい。感じ取ってくれれば……」。マイクを握りながら森原さんはそう思い続けていた。
広島市で生まれ育ち、子どもの頃から活発な「健康優良児」だった。レスリングは、小学5年生の頃に友人の誘いで始めた。広島県の山あいにある県立三次高(三次市)に“レスリング留学”し、3年の時には高校総体66キロ級で8強入りした。進学した立命館大でも西日本学生リーグ戦連覇などの実績を残した。
身長180センチと体格に恵まれた。「手足が長く柔軟性もあったので、レスリングに向いていたのかも」。競技中心の大学生活だったが、将来のため教員免許(社会・地理歴史・公民)も取得した。
「一度は世界を見てみたい」。大学卒業後、カナダに留学し語学学校で英語を学びながら、カルガリー大でレスリングに取り組んだ。永住を考えて拠点をバンクーバーへと移し、仕事を探した。だが難航する。
「八方塞がりだな……」
そんな時、広島のレスリング関係者から声が掛かった。「女子レスリング部を創部する私立高が指導教員(専任講師)を探している。やってみないか?」。海外永住の夢をいったん保留し、1年7カ月暮らしたカナダを後にした。
教員1年目はクラスの副担任を任された。女子レスリング部監督としてゼロから始め、部員も自分で勧誘した。やりがいがあった。妻となる英国人のニューマン・リンジーさん(37)と出会ったのはその年の夏だった。そんな順風満帆な人生に暗雲が垂れこめたのは教員2年目の冬だった。
体に異変が表れ始めた。
年明けにせき込むようになった。「風邪だろう」と高をくくり、病院にかかることなくやり過ごしていたが治まる気配がない。次第に息苦しくなり、クリニックを受診すると「ぜんそく」と診断され吸引治療が始まった。しかし改善しない。
2月下旬ごろからは動悸(どうき)や息切れが加わって苦しさが一気に増した。階段を上る途中で手すりを持って膝をつき、肩で息をするほどだった。
「運動不足だろうか」。ジョギングを始めたが、逆効果だった。立っていると息がしづらくなり、足がひどくむくむようになった。そして悲鳴を上げていた体はついに限界に達する。
高校が春休みに入っていたある日、自宅に近い実家のソファで横たわり、うとうとしていた。母のゆう子さん(64)が息子の異変を察知する。足がひどくむくみ、腫れ上がっていた。足湯でケアしても効果がない。様子を見ていると、無呼吸状態が長いことにも気づき、危機感を膨らませた。
「起きて! 息が止まっているわよ! すぐ病院に行こう!」
森原さんは渋々起き上がった。それまで、どんなにつらくても「ぜんそくはこんなに苦しいのか」と思うばかりで、病院を受診しようとは思わなかった。
「レスリングで鍛えた頑丈な体と健康への過信から明らかな異変をも見過ごし体を追い詰めてしまった」
急ぎ向かった夜間診療所でレントゲン撮影をした後、表情をこわばらせた医師が口を開いた。「心臓が肥大し、生きているのが不思議なくらい」。県内の総合病院をすぐに受診するよう手配された。
「レスリングはまだできますか?」。そう問う森原さんを、医師は驚いたような目で見つめた。その日のうちに緊急入院が決まり、医師はゆう子さんに告げた。…
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