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サッカーW杯・カタール2022

サッカー・ワールドカップカタール大会が11月20日に開幕。4年に1度の世界最高峰の戦いの様子をお伝えします

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森保一監督、揺るがぬ「聞く力」 悲劇の地、歓喜に変えるために

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サッカーW杯カタール大会の日本代表メンバーを発表する森保一監督。断腸の思いで外した選手を思って目を潤ませる場面もあった=東京都港区で2022年11月1日、宮武祐希撮影
サッカーW杯カタール大会の日本代表メンバーを発表する森保一監督。断腸の思いで外した選手を思って目を潤ませる場面もあった=東京都港区で2022年11月1日、宮武祐希撮影

 サッカー・ワールドカップ(W杯)の初出場にあと一歩届かなかった「ドーハの悲劇」の地が、戦いの舞台となる。カタール大会の開幕は20日に迫った。

 今から29年前の1993年10月28日のイラク戦。終了間際、コーナーキックからの流れで放たれたヘディングシュートは弧を描いて日本のゴールに吸い込まれた。つかみかけていた出場権を逃した瞬間だった。ピッチで倒れ込む選手の中に、森保一(もりやす・はじめ)・日本代表監督(54)はいた。

 首都ドーハで11日、日本代表が練習を始めた。午後5時を回り、夕闇に包まれても、気温31度とからりとした暑さが残っていた。「海外組」の合流を前に現地入りしたJリーグ所属の選手たちは長距離移動の疲れも見せずに、「ナイス」「研ぎ澄ませろ」とピッチ上に明るい声を響かせる。森保監督は数十メートル離れた場所に立ち、腕組みをしながら見つめていた。リラックスした様子の選手とは対照的に、早くも勝負師の目になっていた。

 98年フランス大会で悲願の初出場を果たした日本にとって、7大会連続7度目のW杯となる今回は、日本人監督が予選のスタートから本大会までを通して指揮を執る初めての大会になる。最高成績は、過去3度あった16強。森保監督は2018年7月の就任以来、「新しい景色を見られたら」との思いに突き動かされ、8強以上を目指して歩んできた。

 W杯のメンバー発表日が11月1日に決まった際には「僕の名前を考慮して、一並びの日にしていただいて」と冗談めかした。しかし、発表当日は緊張の面持ちだった。東京都内のホテルに設けられた記者会見会場には報道陣233人が詰めかけ、その模様はテレビで中継され、インターネットでも生配信された。

 悩み抜いた末、本大会に臨む26人を最終決定したのは当日の朝。この4年余りで120人以上を代表に呼んだ。共に戦ってきた選手に思いをはせて目を潤ませた後、手元の資料を確認しながら一人一人、ゆっくりとメンバー26人の名前を読み上げ、ふーっと大きく息を吐いた。断腸の思いで外した選手に「許されるなら招集したい」とも語った。

 選手選考を巡っては今も賛否両論が渦巻く。采配を批判され、解任論が世間をにぎわせるなど、これまでも道のりは平たんではなかった。それを静かに、真正面から受け止めてきた。

 長崎市出身で、Jリーグ草創期のサンフレッチェ広島や日本代表で活躍した。12年に広島監督に就任すると1年目で優勝。元Jリーガーの日本人監督が優勝するのは初の快挙だった。在任5年半で、監督としては当時最多タイの3度のリーグ優勝を果たした。その実績を買われて17年に東京オリンピック世代の日本代表監督に就任し、W杯ロシア大会後の18年7月からはフル代表の監督も兼任した。

 21年夏の東京五輪は自国開催の重圧にさらされながら、68年メキシコ五輪以来のメダルに迫る4位と結果を出したが、試練は続く。約1カ月後に始まったW杯アジア最終予選は、初戦でW杯に出たことがない中東のオマーンに、3戦目は強豪サウジアラビアに敗れた。最終予選の3試合を終えた時点で2敗した後にW杯に進めたことは過去にはなかった。当然、風当たりは強まった。

 「一戦一戦が生きるか、死ぬか」。常々、そう語る森保監督は試合会場では動揺は見せなかったが、内心では「本当に自分でいいんだろうか」と悩みを深めていた。初戦の後、日本サッカー協会の田嶋幸三会長(64)や、信頼を置く代表主将の吉田麻也選手(34)=ドイツ・シャルケ=には「いつでも辞める覚悟はできている」と明かしている。

 当時の心境をこう振り返る。「もし駄目なら、早く代えてもらった方が日本サッカーのためになると思って」。何よりも日本サッカー界の未来を考えてきた。

 ただ、苦境にあっても、周囲に気さくに話し掛け、コーチ陣や選手からの提案に耳を傾ける姿はいつもと変わらなかった。「悪い時にぶれてしまう監督もいる。そうなると選手も不安になる。でも森保監督は1ミリもぶれなかった」。吉田選手はそう証言する。

 4戦目で難敵のオーストラリアに勝って息を吹き返すと、そこからW杯最終予選で初の6連勝で本大会の出場権を獲得した。

 「私が結果を出さなければ、日本人指導者の評価が変わってしまう。日本人の指導者がしっかりアジアで勝ち、世界に挑める、世界を追い越していける。そういうところを示すことで、他の指導者にも自信を持っていただき、評価につながるといいなという思いでやってきた」

 実直な人柄で謙虚。情に厚く、内には熱い気持ちと強い信念を秘める。強烈な個性を持った日本代表の選手たちを束ねる立場だが、物静かで「自分が、自分が」と目立つことはない。

 今から30年前。森保監督が選手として日本代表でプレーしていた時も、決して目立つ存在ではなかった。

 ブルーのユニホームを背負うことになったのは92年5月。日本代表合宿で部屋割り表を見て参加リストを確認したチームメートたちは、初めて代表に選ばれた「森保一」の名前を見て首をかしげた。同じ長崎出身の選手などごく一部を除けば、存在すら知られていなかった。

 「何て読むんだ?」「『もりほ』じゃないですか?」

 デビュー戦後、その評価が大きく変わる。

無名のポイチ、最も印象に残る選…

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