尾張と三河の埋められない溝 150歳になった愛知県の歩み

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イラスト・稲葉攝子
イラスト・稲葉攝子

 1872(明治5)年11月27日に現在の愛知県が誕生し、今年で150周年を迎えた。節目をきっかけに、これまでの県の歴史や成り立ち、県庁舎の変遷を振り返る。

 愛知県を東西に分けて呼ぶ「尾張」と「三河」。県民にとってはなじみ深いこの呼び名は、古代に定められた行政区画の「尾張国」と「三河国」に由来する。

 江戸時代には、尾張国は徳川家が支配した尾張藩、三河国は中小藩や幕領などが入り組んだ地域だった。71(明治4)年の廃藩置県後、両地域には計12の県が置かれたが、統廃合を経て「名古屋県」(おおむね尾張)と「額田県」(おおむね三河)に。翌年、名古屋県が「愛知県」に改称し、額田県を合併して現在まで続く愛知県が誕生した。

 「愛知県史」によると当時、尾張と三河は「風土人情が異なる」とされ、明治20年代まで岡崎を中心とした西三河で「三河分県運動」が展開されるなど反発も強かったという。

 そうした中、愛知県の一体性を高めるために一役買ったのが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「三英傑」だった。信長と秀吉は尾張出身で、家康は三河出身。いずれも名の知れた武将たちで今なお郷土の誇りだ。

 名古屋市博物館学芸員の木村慎平さん(36)は「『難治県』とも称された愛知県で、3人の有名な武将を『郷土の三英傑』とする認識を学者などが広めていったことで、尾張、三河を一体とする県民意識に結びつけていったのではないか」と指摘する。

 一方で、尾張と三河の間には埋められない溝もある。名古屋大大学院人文学研究科の石川寛准教授(51)は「一つの県として成立したものの、尾張と三河の間には政治的にも経済的にも格差があり、どうしても尾張が優位に立ちやすい。三英傑で一体性を出そうとしても、それは名古屋、尾張か…

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