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「『女性のみ』を対象とする賞の意義はあるのだろうか」。40年続いた全国公募の女性文学賞が2022年度をもって休止することが発表された。男性中心の文壇に一石投じようと女性の書き手たちが奮い立ち、1983年に創設。その後女性作家が増え、賞を運営する協会の代表は、揺れ動く思いを前述のようにブログで打ち明けていた。身銭を切って立ち上げ、無償で走り続けてきた女性たちを支えたものは何だったのか。
賞の名は「大阪女性文芸賞」。主催する大阪女性文芸協会が誕生した80年前後の時期は、カルチャーセンターの文章教室が人気だった。79年には主婦業の傍ら教室で腕を磨いた重兼芳子さんが52歳で芥川賞を受賞して話題に。育児を終え、自己表現として文芸を志す女性が「書く」ことに夢中になった時代だった。
一方、当時は文学賞の選考委員や文芸評論家のほとんどが男性だった。女性の身体感覚や感情、あるいは性愛について「女の本音で書いたものは時として理解されにくかった」。92年に協会メンバーとなり、00年から代表を務める尾川裕子さん(68)は、創設時の協会理事たちからそんな話を聞かされた。
「小説の良しあし以前に『こんな女(主人公)は嫌だ、ついていけない』と評されることもあったそうです。男性が抱く理想の女性像や母親像からズレていたら作品として認められず、女性の書き手は苦い思いをしてきた」
こうした男性目線の偏った評価に対し、「女性のために女性が作る新人文学賞を」と発奮したのが、主に同人誌などで活躍していた50~60代の大阪の女性作家たちだった。
カルチャーセンターに通う書き手だった刀禰(とね)喜美子さん(現名誉会長)を初代代表に83年、協会が発足。「女性の文学の向上」という理念を掲げ、大阪女性文芸賞は生まれた。そしてその後の協会を導いたのが、87年に作家の大庭(おおば)みな子さんとともに芥川賞初の女性選考委員に就任する大阪出身の作家、河野多恵子さん(1926~2015年)だ。
「育ての親」は作家の河野多恵子さん
「河野多恵子さんを選考委員に呼べたら、この賞は長く続くだろう」。河野さんと2人で大阪女性文芸賞の初期の選考委員を務めた文芸評論家の小島輝正さんは、発足の際、相談に訪れた協会スタッフにこう語ったそうだ。
「本当にその言葉通りになりました。…
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