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進さんを捜して

太平洋戦争中に死亡した日本兵で、身元不明の遺骨は約2万柱。骨が戻ってこない大叔父の足跡を追い、戦争について考えます。

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進さんを捜して

生還率6%…めちゃくちゃな作戦 死因の8割は飢えと熱帯病

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ニューギニア島に上陸した日本軍=1942年4月
ニューギニア島に上陸した日本軍=1942年4月

 私の祖母の弟、新井進さんの遺骨を捜すDNA照合を申請すると同時に、進さんの足跡をたどる作業を始めた。唯一の手がかりは戸籍に残る「昭和19年1月20日時刻不明、東ニューギニア方面(現・パプアニューギニア)に於(お)いて戦死」との一文だ。【國枝すみれ】

 連載「進さんを捜して」第1部は全4回です。
 このほかのラインアップは次の通りです。
第1回 DNA鑑定をしてみる
第3回 ウルワ河ってどこ?
第4回 戦地で起きた本当のこと

靖国神社に残っていた記録

 進さんは1916(大正5)年、5人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。三女だった私の祖母は六つ離れた進さんと仲が良かったらしい。

 「飛ぶ鳥跡を濁さず」が口癖だった祖母は、家族の写真や手紙をほとんど焼いて死んでいった。終戦後、一度だけ戦友が九州にいた祖母を訪ねてきたことを伯母が覚えていたが、何を話したかについては知らなかった。

 どの部隊に属していたかも分からないのでは話にならない。困っていると、母が思い出した。「そういえば、おばあちゃんと姉たちが靖国神社で進さんの50年祭をやった。神社に『50年祭までする家族は珍しい』と言われた、と聞いた」

 靖国神社に電話をかけると、すぐに調べてくれた。進さんは、陸軍第18軍第20師団輜重(しちょう)兵第20連隊に所属しており、44(昭和19)年1月20日にパプアニューギニアのウルワ河で戦死していた。

 輜重兵の役割は、馬や車で食料や武器を運ぶ後方支援。日本軍は戦闘員ではない輜重兵をバカにした。「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々(ちょうちょう)トンボも鳥のうち」とからかった。一方、米軍や豪軍は兵站(へいたん)を重視した。食料や武器が届かない地域に戦闘を広げることはなかった。

軍公式記録はわずか2枚

 厚生労働省社会・援護局に、得られた情報や戸籍のコピー、住民票などを送り、進さんに関する資料を探してもらう。しばらくして、留守名簿、戦時イロハ留守担当者名簿、輜重兵第20連隊の行動年表が送られてきた。

 防衛研究所戦史研究センターの柴田武彦さん(66)が資料読みを手伝ってくれた。

 大阪商大を卒業した進さんは39年12月、23歳で陸軍に入隊している。連隊は中国北部に派兵されていたが、翌年1月に編成し直された。進さんは駐屯していた朝鮮で新兵訓練を受けてから伍長になり、そのまま南方戦線に派兵されたらしい。

 一番の収穫は、進さんの認識票の番号が1033番だと判明したことだ。日本軍の兵士は楕円(だえん)形のアルミ製認識票にひもを通して、体にたすき掛けにしていた。米兵も…

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