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阪神大震災

1995年1月17日に発生した阪神大震災。戦後初の大都市直下型地震が残した教訓・課題は今――。

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「先生、大事な話するね」親族失った教員 葛藤の先に見えた答え

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2歳のときに被災した阪神大震災について、児童に話す教員の西原万寿美さん=神戸市中央区で2022年12月16日、川平愛撮影
2歳のときに被災した阪神大震災について、児童に話す教員の西原万寿美さん=神戸市中央区で2022年12月16日、川平愛撮影

 大きな地震に2度、遭遇した。28年前、死者6000人を超える災害で親族を亡くした。「子どもに命を守る方法を教えたい」。そう決意し小学校教諭になったが、再び見舞われた地震で、自分が何も教えられていないことに気づいた。どうすればあの日の教訓を伝えられるか。私に話す資格があるか――。葛藤の中、一つの答えが見え始めた。

 2022年12月中旬、西原(にしはら)万寿美さん(30)は神戸市立こうべ小学校の教壇に立っていた。「大事な話をするから、ちゃんと聞いてね。今日は先生が経験した地震について話します」。担任する1年生25人を前に語り始めた。

おぼろげな記憶

 西原さんにとって、発災当時の記憶はおぼろげだ。ただ、毎年1月、家族からその日のことを聞かされて育った。

 1995年1月17日午前5時46分。神戸市須磨区の自宅で寝ていると、突き上げるような揺れに襲われた。「飛行機でも突っ込んだのか」。父が叫び、母は当時2歳の自分に覆いかぶさった。タンスは倒れ、床はガラスまみれ。兄を含め家族4人にけがはなかったが、自宅は半壊した。

 父は別の場所にいる親族の安否確認のため外出し、戻った後で告げた。「落ち着いて聞け。すみこおばちゃん、もう無理やと思う」。

 2階建てアパートの1階に住んでいた大叔母の下村澄子さん(当時55歳)が倒壊した建物の下敷きになった。圧死だった。

 お好み焼き店を営んでいた「すみこおばちゃん」。子ども好きでいつも笑顔を絶やさない人だった。幼い頃は、会うたびに抱っこして「ますみちゃん」と呼び、鉄板で焼いたお好み焼きを食べさせてくれた。

 国内で初めて震度7を観測した阪神大震災。死者は6434人に上り、約25万棟の建物が全半壊した。

 「震災の経験を語り継いでいくことが君たちの役目だ」。小学生の時、担任からそう言われたことが強く心に刻まれた。

 大学生になって進路を選ぶ時、その言葉が頭から離れなかった。

 11年に起きた東日本大震災では、多くの子どもが犠牲になった。「またいつ地震が起きるか分からない。自分の経験を伝え、子どもたちに命を守る方法を教えたい」。教員採用試験を経て18年4月、大阪市城東区の小学校に赴任した。

混乱する教室

 2カ月後の6月18日午前7時58分。西原さんが授業の準備で校舎にいる時、立っていられないほどの横揺れが起きた。

 大…

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