- ツイート
- みんなのツイートを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷

ちなみに大原観山の長女八重(やえ)が、松山藩、御馬廻加番(おうままわりかばん)、正岡常尚(つねなお)に嫁ぎ、龍馬が松山藩を訪れた文久元(一八六一)年から六年後、奇(く)しくも龍馬が京の地で命を落とした慶応三(一八六七)年に、男の子を産む。
この観山の初孫が、本名常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)と改められ、多くの友人子弟から「のぼさん」と慕われた、正岡子規である。
さて、観山の使いが旅籠(はたご)に着いたとき、すでに龍馬は出発していた。藩の港から、芸州(広島)もしくは長州に向かう船に乗ったらしい。たとえ芸州に着いたとしても、目的地は長州と、観山は読んでいた。
この記事は有料記事です。
残り769文字(全文1067文字)