産声を上げない我が子 見過ごされていた母親の現実とは
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今から思えば、涙雨だったのかもしれない。
朝から降っていた小雨は、夕方に病院に着く頃には少し強まっていた。北寄りの強い風は、平年よりも低い気温を余計に肌寒く感じさせる。出産を2週間後に控えた奥野理恵さん(41)=和歌山市=は、足早に院内に入った。
2020年10月8日、その日に診察を受ける最後の妊婦だった理恵さんに、静かな診察室で産婦人科の医師は重い口を開いた。
天国から地獄
「お子さんの心音が確認できません」
妊娠の経過は順調だったので、予想もしなかった宣告にパニックとなり、取り乱した。勤め先で会議に出ていた夫の紘規(ひろき)さん(43)も病院に駆け付け、医師と助産師から状況を2人で聞いた。
そこで初めて、死産でも分娩(ぶんべん)をする必要があることを知った。「それは酷だな……」。非情な現実に紘規さんは耐えられなかった。
病院を後にした2人は、スーパーで夕食を買って帰宅した。紘規さんはハンバーグを選んだことまで覚えているが、理恵さんにこの日の記憶はほとんどない。「天国から地獄だった」。心に唯一残るこの日の気持ちだ。
10日に出産することが決まった。陣痛促進剤や子宮口を開く医療機器を使い、体重2418グラム、身長48・7センチの女の子が生まれた。名前は既に「仁椛(ひとか)」と決めていた。
産声を上げない我が子を2人は迎え入れた。助産師が「可愛い子やね」と、明るい雰囲気を作ってくれた。院内で仁椛ちゃんをもく浴させ、ビデオで撮影した。小さな手形や足形も取って娘を慈しんだ。
ひつぎには、寂しくないように2人や親戚の写真を張り、おもちゃやベビー服、理恵さんの服などを入れてあげた。合気道の有段者の紘規さんは、愛用していた黒帯を納めた。火葬場の配慮で、たくさんの骨を残してくれた。2人は、出産から火葬までは「充実していた。悔いなく送り出せました」と声をそろえる。
日常に戻ると状況は一変した。小さな骨つぼを前に理恵さんは「生きる希望を失い、泣くばかりだった」。仕事にも行けず「現実を消化できず、周りの気遣いに応える気力がなかった」という。誰とも会えない日々。流産や死産を経験した人は身近におらず「暗いトンネルの中に一人でいるような」孤独感に襲われた。紘規さんも悲しみを押し殺しながらの勤務が続いた。
「私は病気ではない」
出産から1カ月後、母体の健診で病院を訪れると心療内科を紹介された。しかし、理恵さんは「私が必要としているのは医師ではない。病気ではない」と拒んだ…
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