侍ジャパン・湯浅京己「ずっと一緒に」 亡き友と挑むWBC
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野球の国・地域別対抗戦、第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表「侍ジャパン」は9日、1次リーグ初戦の中国戦に臨む。頂点を目指す連戦の中で中継ぎエースとして期待がかかる湯浅京己(あつき)投手(23)=阪神=には、自身初となる世界の舞台で投げている姿を見せたい人がいる。
昨年7月、湯浅投手の実家がある三重県尾鷲市でご両親に取材をした時のこと。「彼が大切にしていること、ものはありますか」と記者が尋ねた。すると、母衣子さん(50)から「一緒に少年野球をやっていて、京己が中学3年の時に亡くなった一つ年下の子がいるんですよ。京己が今もずっと部屋に飾っているのは、その子が書いた『勝』っていう字ですね」と返って来た。
その子、村田陵紀さんは2014年7月16日、14歳で亡くなった。
小学4年の時に尾鷲野球少年団に入った村田さん。監督は湯浅投手の父栄一さん(51)だった。
村田さんの実家の仏間の棚には、色あせた紺色の野球帽が一つ置かれている。帽子のタグにはペンで「湯浅京己」と書かれ、そのそばには「村田陵紀」とうっすら文字が残る。湯浅投手から村田さんがもらったお下がりで、成長して頭が大きくなってきつくなっても小学6年まで使っていた。
村田さんの母美加里(みかり)さん(51)は「憧れてたんでしょうね。『あっくん、あっくん』とよく言ってました」。12年、小学6年で念願のエースナンバー「1」の背番号をもらうと、練習から帰ってきて「1番もらいましたー」と半泣きで喜んで母に報告した。自宅では試合の映像を見て相手の癖をメモし、次の対戦に備えるなど研究熱心な野球少年だった。
しかし、大好きな野球に打ち込める日々は、長くは続かなかった。物が二重に見え始めたのは、その年の9月。病院で検査を受けた結果、子どもに多いがん「横紋筋肉腫」と診断された。腫瘍は、脳の下の治療が難しい場所にあった。すぐに大阪市内の病院に入院することになった。
「どんなお子さんだったんですか」。村田さんのご両親に尋ねると、美加里さんは「優しい」「真面目」と言った後、「頑固なところもありましたね」と、院内でのエピソードを明かしてくれた。
ハロウィーンの時期、子どもたちは腕などにペイントをしてもらうイベントがあった。看護師から「陵紀君も書いてもらえば」と勧められたが、村田さんは語気を強めた。「絶対僕は嫌。腕に書くなんて絶対駄目。僕はこの腕がちょっと泥がついても払ってきれいに洗ってる。監督から『肘と肩だけは大切にしろ』って言われたから。だからそんなことはできない」。意志の強い子だった。
記者と一緒に話を聞いていた栄一さんは「それは初めて聞いたな」とつぶやいた。その目は、涙でぬれていた。
村田さんの父雅史さん(52)も、別の話を教えてくれた。…
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