特集

WBC2023

第5回ワールド・ベースボール・クラシックで日本代表「侍ジャパン」は、3大会ぶり3回目の優勝を果たしました。

特集一覧

侍ジャパン記者通信

WBC日本代表最多3人 沖縄勢の活躍がもたらす好影響

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
【オリックス-日本代表】八回裏日本代表無死、左越え本塁打を放った山川穂高=京セラドーム大阪で2023年3月7日、藤井達也撮影
【オリックス-日本代表】八回裏日本代表無死、左越え本塁打を放った山川穂高=京セラドーム大阪で2023年3月7日、藤井達也撮影

 野球の国・地域別対抗戦、第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する日本代表メンバーは30人。出身の都道府県別では、沖縄県の3人が最多だ。かつては甲子園出場になかなか届かず、出られても勝てない時代が長かった沖縄。山川穂高内野手(西武)を中部商高時代に指導した盛根一美さん(71)は「沖縄の子どもたちが『憧れの3人に続くんだ』という気持ちで練習に取り組んでくれたら、上達が早くなるはず」と活躍に期待を寄せる。

 今大会メンバーで沖縄県出身は山川選手と、興南高出身の宮城大弥投手(オリックス)、那覇市出身で高校は東海大相模高(神奈川)に進んだ大城卓三捕手(巨人)。「3人とも南国特有のおおらかさがあるが、ただ『やればいいさー』という気持ちだけでやっていたら成長しない。結果を出すためには、やるべきことをやらないといけない。それが徹底できているなと穂高を見ていて思いますよ」と盛根さんは言う。

 山川選手に出会ったのは高校1年の春。盛根さんが1997年夏の甲子園で浦添商高を4強に導き、南部商高を経て中部商高に赴任した年だった。プロ野球・西武入団後は先輩の本塁打王・中村剛也内野手の愛称になぞらえて「おかわり2世」とも呼ばれるようになった山川選手だが、高校入学当時からすでに体重は100キロ前後あり、パワーのあるスイングは群を抜いていた。

 秋の1年生大会で4番を任せると本塁打を放ち、優勝にも貢献した。ただ、上級生と一緒の試合になると、代打の準備をさせていても遠慮するようなところがあり、「無理して使って野球が嫌いになったら困る」と考えて起用を控えた。2年秋の新チームから4番に座り、3年夏には沖縄大会決勝に進んだが、興南高に敗れて甲子園にはあと一歩、届かなかった。

 山川選手は試合に出られなくても「先輩たちに交じって、人一倍練習していた」と盛根さんは言う。毎日午後8時ごろまでの全体練習を終えた後も、1時間ほど外野の防球ネットに向かって黙々とティーバッティングをこなした。冬場の基礎練習では、他の選手が手抜きをしてしまうきついサーキットトレーニングでも、全員が終わった後にトレーナーに「おかわり」を要求。「自分から努力していた。嫌な練習でも嫌な顔をせずに、本当に一生懸命に取り組んでいた」。その姿は、恩師の目に今も焼き付いている。

 そんな努力家も、当時は未完の大器。打撃は変化球をやや苦手とし、右翼を守らせていても「(そっちに)打球が飛ぶなと願っていた」と盛根さん。プロのスカウトが訪ねてくるほどのレベルにはなかった。盛根さんは大学での教員免許取得も勧め、「野球ではメシが食えないということもあるから、卒業後はそういう(教員の)道もどうか」と遠く離れた岩手県の富士大に送り出した。

 地道な練習の成果は大学時代に花開き、ドラフト2位で2014年に西武に入団。19年に2度目の本塁打王を獲得した後、母とともに盛根さんの自宅を訪ねてきた山川選手は「大学1年の夏休みぐらいからはプロでやるんだという気持ちだった。だから教職(課程)は取りませんでした」と告白されたという。

 沖縄は夏の甲子園予選となる南九州大会に1932年から正式参加したが、甲子園にたどり着いたのは、記念大会として当時46都道府県と米国占領下にあった沖縄を加えた47代表が出場できた58年。その後…

この記事は有料記事です。

残り477文字(全文1859文字)

あわせて読みたい

マイページでフォローする

この記事の筆者
すべて見る

ニュース特集