ジャパニーズウイスキー100年 長い低迷期をどう脱したか
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日本で本格的なウイスキー製造が始まってから2024年で100年を迎える。本場の英国から取り入れた技術を磨き、世界5大ウイスキーの一つに数えられるほどになった「ジャパニーズウイスキー」。そこに至る長い低迷期を脱することができたのは、将来を見越して布石を打っていたからだった。
日本のウイスキーの父
米ニューヨークで22年6月、1本のウイスキーが競売に出品された。大麦麦芽のみを原料にして、単一の蒸留所で造られたシングルモルトウイスキーだ。落札価格は60万ドル(当時のレートで約8100万円)にも達した。
破格の値となったのはサントリーが20年に100本限定で販売した「山崎55年」。1964年より前に仕込んだ原酒を使用した。日本で当初販売した価格(330万円)の25倍に跳ね上がり、ジャパニーズウイスキーの国際的な評価の高さを裏付けた。
このウイスキーを生んだ山崎蒸留所(大阪府島本町)は、日本初のウイスキー蒸留所として知られる。23(大正12)年に施設の建設を始め、翌24年から製造に乗り出した。この地は古くから良質な地下水で知られ、3本の川が合流する地形はウイスキーの熟成に向いた湿潤な環境をもたらす。
建設を決めたのは、「赤玉ポートワイン」で成功した寿屋(現サントリーホールディングス)創業者の鳥井信治郎氏(1879~1962年)。当時出回っていたウイスキーは、アルコールに色と香りを付けた模造品か輸入品ばかり。そこで本格的なウイスキーの製造に挑んだ。
初代工場長に招かれた竹鶴政孝氏(1894~1979年)は、英北部スコットランドで蒸留技術を学んだ。最初のウイスキー「白札」を発売したのは、製造を始めてから5年後の29年。当初は「焦げ臭い」との評判で、売れ行きは芳しくなかった。今もロングセラーを続ける「角瓶」を37年に発売して、蒸留所はようやく軌道に乗った。
竹鶴氏は34年に寿屋を退社しており、同年に自身で大日本果汁(現ニッカウヰスキー)を創業。北海道余市町に蒸留所を構えた。こうした経緯から竹鶴氏は「日本のウイスキーの父」と呼ばれるようになった。
「冬の時代」に打った布石
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