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WBC2023

第5回ワールド・ベースボール・クラシックで日本代表「侍ジャパン」は、3大会ぶり3回目の優勝を果たしました。

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侍ジャパン記者通信

WBCチェコ代表支える日本人 東欧の野球から学んだ大切なこと

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チェコ代表の宮崎合宿に同行し、練習をサポートする田久保賢植さん(右)=本人提供
チェコ代表の宮崎合宿に同行し、練習をサポートする田久保賢植さん(右)=本人提供

 野球の国・地域別対抗戦、第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に初出場し、東京ドームでの1次リーグB組でひたむきなプレーで強い印象を残したチェコ。世界の舞台に臨む代表チームの通訳やノック打ちなどサポートに奔走したのは、チェコのトップリーグで初の日本選手となった田久保賢植さん(38)だ。「野球に関わりたい」という一心で世界を飛び回り、たどりついた東欧の小さな国が、大切なことを教えてくれた。

 千葉県出身で、初めて海外へ行ったのは千葉・八千代西高3年の時。埼玉県内であった米大リーグ(MLB)のトライアウトを受け、そこで出会ったスカウトに打撃を評価され、フロリダのベースボールアカデミーに誘われて参加した。しかし、現地で肉離れを起こして満足なパフォーマンスは見せられなかった。

 帰国後、大学に進学したものの、新たなけがもあって野球部の監督と衝突して退部。そのまま退学し、1年間はフリーターだった。生活の中心にあった野球がなくなり、心にぽっかりと開いた穴を紛らわすかのように遊び続けた。「1年でこんなに人生って変わるのか。(自分は)くそだな」。そう思い始めたころには、けがも完治していた。

 20歳で再びバットを手に取り、大リーガーを目指して再渡米しサマーリーグに参加。帰国後は社会人野球チーム、独立リーグの徳島インディゴソックスを経てカナダへ渡ったが、結果は残せなかった。この時24歳。限界を感じ、引退を決意して帰国した。

 民間企業に就職し、コピー機の営業を担当。慣れない会社員生活で、徐々に相手から信頼を得る考え方や動き方を知り、評価されるようになった。野球をやっていたころ、ただやみくもに自分を売り込んでいたことを反省し、「今なら、野球でももう一度チャンスがあるかもしれない」。胸にくすぶっていた野球愛に再び火が付いた。

 関西独立リーグやオーストラリアのチームを渡り歩き、2012年に知人を通じて紹介されたチェコの野球チーム「フロッシ・ブルノ」と選手契約を結ぶことになった。当時、チェコリーグでは初めての日本選手だった。ヨーロッパの野球に対する知識は全くなく、「チェコも野球やってるの?」くらいのイメージを持ちながら28歳で渡欧した。

 チェコにはプロリーグはなく、トップリーグの選手たちは消防士や教員、医者など野球とは別の職業に就いていた。全体練習は勤務を終えた夜7時ごろから2時間ほど。田久保さんら外国人選手は日中は各自でトレーニングし、夕方から小中学生の練習を指導した後に練習する日々だった。

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