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陽光に、木々がもえぎ色に衣替えを始めた。小川ではオタマジャクシが踊り、フクジュソウの黄花が土手を彩る。3月上旬の熊本県山都町浜町(はままち)。宮崎県境に連なる九州脊梁(せきりょう)山地の懐に抱かれた町である。
春を迎えた浜町の一角に「妙見(みょうけん)さん」と呼ばれる湧水(ゆうすい)公園がある。平安中期に阿蘇大宮司友仲(あそだいぐうじともなか)が神社を創建。湧水を「東の御手洗(みたらい)」としたと伝えられる。公園では長年、休日を除く午前6時過ぎからラジオ体操が行われている。
<♪両手ば上さん上げっち、背中伸ばし運動から、手ば振って、膝ん曲げ伸ばし♪>
熊本弁の歌詞に合わせて体を動かすのは、造り酒屋の大おかみ、山下弘子さん(85)に金光教の橋本教嗣教師(85)と妻寿子さん(82)、郷土史家の田上彰さん(70)の4人組。10年近く町に通う私も、訪れた際は欠かさず顔を出した。
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湧水の傍らにそびえ立つご神木の「妙見さんの大ケヤキ」が倒壊したのは、2003年1月12日の午後6時過ぎだった。樹齢1000年といわれ、幹回り9メートル、樹高33メートルで、国の天然記念物に指定されていた。
「大相撲のテレビ中継が終わって間もなく、ジェット機が頭上を飛ぶような轟音(ごうおん)がして、外に出たら倒れとった。太か枝がうちの庭先まで飛び散っておったとですよ」。妙見さんの裏手の高台に居を構える橋本さんが当時を振り返り、寿子さんが言葉を継いだ。
「倒壊した所には、以前は桶(おけ)屋さんがあったとです。ご主人が亡くなったのを機に、廃業して転居されて。町が更地にして、倒壊の翌日から公園にするための工事が始まる予定でしたが、家屋や人を傷つけることもなく最期を迎えてですね。『さすが、ご神木』と拝んだとですよ」
倒壊のニュースは地元メディアが大きく報道した。町内外から別れを惜しむ人の列が続き、熊本日日新聞のコラムにはこう記されている。<まるで、弔問のように引きも切らず人が訪ねてきた>
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ケヤキが芽吹いたとされる1000年前。このかいわいの様子を伝える古文書は残っていない。文献に出てくるのは、阿蘇家の居館が置かれた南北朝以降。江戸時代には、肥後(熊本県)から大ケヤキの下を抜けて日向(宮崎県)を結ぶ「日向往還」が整備され、塩や乾物を運ぶ人馬が往来し、宿場として栄えた。「旅人は、妙見さんの湧水で喉を潤し、ケヤキの木陰で足を休めたことでしょう。旅人の神『猿田昆古大神(さるたひこおおかみ)』の石碑もあります」。郷土史家の田上さんの解説だ。
明治以降は農林業が細々と営まれていたが、昭和の戦後復興期に建設資材の需要が高まると、山林が現金収入をもたらした。山は切り売りされて、腹巻きに札束を詰めた山持ちが、朝から町の飲食店に詰めて、売買した。
浜町がある旧矢部町の人口が3万人近くに達したのも、この時代だ。映画館が2館、造り酒屋が3軒で、デパートも2店。妙見さんから続く通りは「官公庁道路」と呼ばれ、営林署に専売公社、保健所や法務局が軒を連ねた。
バブルはほどなくはじけ飛ぶ。円高が進むと安価な輸入材が国産材に取って代わり、林業は衰退。若者は職を求めて都市部に流出した。車社会到来で買い物客は近郊の大型店に向かい、商店街はシャッター通りに姿を変えた。過疎化と高齢化で財政難が進んだ05年には、旧矢部町は近隣2町村と合併し、山都町が発足した。
◇
町の歴史を見守ってきた大ケヤキが倒壊して20年を経た、3月の昼下がり。体操仲間の弘子さんと寿子さんに誘われて、妙見さんの裏手の高台を散歩した。お浸しにする菜の花やセリを摘み、昔話に耳を傾けた。
「昔は昼が近づくと、近所のお母さんたちが妙見さんに洗濯をしに集まり、世間話たい。夕方には野菜を洗いながら井戸端会議ばいた」「赤ん坊の産湯は、妙見さんの水を使ったもんたいね」
「うちの旦那は子供の頃に、天秤(てんびん)棒に桶を下げ、五右衛門風呂や炊事用の水をくんで運んどったらしか」
「放課後は、子供の遊び場じゃったね。ハエ(ハヤ)やドグラ(ドンコ)を釣って、焼いて食べる子もおった」「夏にはスイカやキュウリを冷やして、夜は蛍がきれいじゃった。今は子供も蛍も少のうなった」
そして、2人は別れ際に、笑みを添えて言った。「年寄りばかりになったばってん、空気と水がおいしかこの土地で暮らすことができて、幸せばい」
23年2月。山都町の人口は1万3532人で、高齢化率は50・8%に達した。そして、妙見さんの公園では、クローンとして保存してあったケヤキの苗が、丈を3メートルほどに伸ばしていた。【客員編集委員・萩尾信也】