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もののハズミ、というものは、誰にでもある。
僕もそうだ。
家事や仕事が立て込んでいる時、家族に「○○は済ませた?」と聞かれ、つい「やったやった」と生返事でかわそうとしてしまう。もちろん、すぐに謝るハメになる。
だから、例の放送法を巡る総務省の文書について、3月3日の参院予算委で立憲民主党の小西洋之参院議員に「文書が捏造(ねつぞう)でなかったら大臣、議員を辞職することでよろしいですね」と問われ、「結構ですよ」と応じてしまった高市早苗経済安全保障担当相の気持ちも、ちょっぴり理解できなくはないのだ。
反射的な、売り言葉に買い言葉のたぐいだろう。その後、文書は「捏造」ではなく、れっきとした公文書であることが判明し、高市氏は「文書の内容は間違い」(2023年3月15日、参院予算委)と主張を変えたのだが、このやりとりをもとに辞職すべきかどうかを問うのは不毛だと思う。
とはいえ、僕に理解できるのはここまで。公文書の記録より己の記憶のほうが正しい、と断定し続けることのできる高市氏の自信は過信ではなかろうか。
もの忘れや記憶違いは誰にでもあるわけだから、忘れないよう書き留める。自営業の人も勤め人も書類を作る。新聞記者はノートに記し、官僚は公文書を作る。個人の記憶ではなく、記録を信じることで世の中が動く。
そのすべて、あるいは社会の前提をひっくり返すような高市氏の「私の記憶のほうが正しい」論。確かに公文書が常に正確だとも限らないし、一つの事実や発言を巡って、政治家と文書作成者とで認識がずれることもあり得る。
だが、…
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