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国連が「たった1日でもいいから、争いや戦争のない日を」と定めた「国際平和デー」(9月21日、通称ピースデー)。賛同する人たちの等身大の思いを伝えます。
小2で留学、中国から始まった「平和」の旅
社会起業家・平原依文さん
SDGs(持続可能な開発目標)を軸にした企業コンサルティングや教育事業を展開し、社会起業家として知られる平原依文さんは、一般財団法人「PEACE DAY」の理事でもある。国連が定めたピースデー(9月21日)の普及に努める一人だ。「その出発点は?」と聞くと、中国・上海の全寮制の小学校で過ごした4年半の日々から語ってくれた。
上海の全寮制の学校へ
東京都内の小学校に入学した平原さんは、「あの子には近寄るな」と言われ、いじめのターゲットになっていたという。両親は事実婚で姓が異なり、父親とは血がつながっていないのが理由だ。「いつ結婚してくれるの?」「私のために結婚して」と両親にせがみ続けていたある日、中国からある少女が転校してきた。国籍を理由に最初はいじめられたが、くじけない女の子だった。分からないことがあると、「これ教えて!」とひるまずに声をかけてくる。テストの成績が悪かった時の彼女の口癖は「もっと頑張るぞ」。
平原さんは、彼女のように「強くなりたい」と思った。親のせいにするのではなく、どんな環境に置かれても、彼女のように生きたいと思うようになった。彼女によると、中国には日本よりはるかに多くの人が暮らし、教育を受ける機会も日本ほど恵まれていない。チャンスが回ってくることも少なく、だからこそみんなが必死に生きているのだという。
まだ幼い平原さんだが、「中国で勉強したい」と両親に訴えた。学校を自分で見つけられたら、ということを条件に両親は平原さんを連れて上海を旅行し、転校先を探した。望みをかなえるにあたり、母から言われたことは「一回でも『日本に帰りたい』と言ったら、二度と留学は認めない」。そして、小学校2年の2学期に転校したのが、上海にある全寮制の学校だった。日本人は平原さん1人だけ。ここで、国際社会の洗礼を受ける。
「心の平和」を失って
――実際に行ってみて、どんな体験を。
「私が中国に行ったのは2001年です。尖閣諸島の領有権問題や竹島の帰属問題がニュースとして取り上げられていました。授業で南京大虐殺の動画を繰り返し見せられたときもそうですが、私はこれらの問題そのものを知らなかったんです。びっくりしたのが、自分のロッカーに、『竹島は韓国のものですよ』『尖閣諸島、これは中国のものですよ』と旗が描かれている絵を貼られたことです。同級生からは卵を投げつけられ、自分の中の『心の平和』がなくなりました。自分という人間が存在する以前に、国と国との関係が影響を及ぼすことを知ったのです。平和について考えるきっかけになりました」
――どんな状況で投げつけられたのですか。
「通っていたのは小中高一貫の学校で、大学のキャンパスのような広い敷地に校舎と寮があります。通学途中や休み時間の廊下で投げつけられました。お昼ご飯を食べる時に外に出るんですけども、近くにあった韓国人学校の人からも卵を投げつけられました。生卵なので、髪や服はベトベトになります。より危険な目に遭いかねず、1週間ほどホテルに避難したこともあります。学校に戻ると、またロッカーに絵が貼られている。そんな状態です」
――その状態にどう折り合いをつたのですか。
「当時は気軽にテレビ電話をしたり、メッセージを送ったりできなかったので、国際電話カードしか日本にいる両親と連絡できる手段がなかった。『日本に帰りたい』と思いましたが、そう言えば、『もう留学はダメ』と言われてしまう。私は結構頑固なところもあって、踏みとどまりました」
「あと、担任の先生の影響が大きいですね。米国やカナダなど、いろんな国の歴史の教科書を持ってきてくれました。電子辞書で訳して読むと、同じ歴史であっても、国によって語っている内容が違うことを知りました。『なんでこんなに違うの?』と聞くと、『各国の教科書は、その国がヒーローになれるような形で書かれているのがほとんどだ』と教えてくれました。同じことが起きても、視点によって受け取り方は違うし、書き方も全然違う。先生は『日本を悪く思っている人が、なぜそう思うのか、いろんな視点で見てほしい』と」
――大きなアドバイスですね。
「中国でも最初、いじめられるのを環境のせいにしていたんです。中国、韓国と日本の関係が悪いからなんだ、と。でも、先生の話を聞いて、『日本から見た歴史』を自分で勉強したいと思いました。先生が協力してくれて、近くにある韓国人学校や日本人学校から教科書を借りました。その学校の児童たちと毎週金曜日の放課後、世界史で起きてきたことを一緒に話すようにもなりました。そうすると、尖閣諸島の問題も、国によって見え方が違う理由を知ることができた。それぞれが、周りの大人からもらう情報で、その国の歴史を見ていたからです。だから同じ歴史であっても全然違う。自分たちが『100%正義だ』と思っていても、相手の視点に立って考えると、そうでもない。政治の問題、歴史の問題が個人の考え方や行動に影響を及ぼし、差別や偏見が起きてしまう。そう知ってから、徐々に周りの人たちとの『境界線』が溶けていった。もっと多角的な視点を持って、歴史を見られるような人が増えればいいなと思うようになりました」
メキシコでは防弾チョッキを着て通学
6年生の時に同級生がカナダに転校すると、中学進学を控えていた平原さんは、カナダで学びたいと母親に頼んだ。日本に一時帰国した際に開かれていた「留学フェア」で進学先を探し、バンクーバーの中学校に通うことを決めた。以来、高校卒業までの6年間はカナダで教育を受けている。この間、メキシコにも交換留学している。
――カナダで「平和」に関して印象に残ることは?
「カナダには、いろんな国の人や民族が暮らしていて、それぞれの文化を尊重しているとの印象を受けました。歴史の授業では、一つ一つの事象をいろいろな民族の視点で話してくれました。自国にとって『不都合な歴史』を隠さないところがすごく好きでした。例えば、第二次世界大戦の時に、釣りで生計を立てていた日系移民を強制キャンプに閉じ込めていたことがあります。教科書に書かれていて、歴史の先生は『ごめんね』と言ってくれました。私が『なんで謝るの?』と聞くと、『サーモンを日系人に全部とられてしまうと思って、キャンプに入れてしまった。でも、その人たちのおかげで今、サーモンがカナダの資源となっている。無害の人たちを閉じ込めてしまった責任があるということを、カナダ人の一人としてきちんと伝えたい』と。これが、カナダで学んだ『平和』でした」
――どんな気持ちになりましたか。
「私は日本人としてのアイデンティティーを持っているので、中国やカナダなどで、なぜこんなことが起きたんだろうかと、悲しい気持ちになることもあります。でも、その国の人に聞くのはどうなんだろうかとちゅうちょしていました。謝ってほしいと思ったことも全然ない。でも、それを先生から言ってくれた。カナダから見れば不都合な真実を隠さずにちゃんと対話してくれた。自分の中ですごくありがたかったですね。いろんなわだかまりが解けましたね」
――では、なぜメキシコへ?
「カナダで学んだスペイン語の先生が、メキシコ人でした。この先生が、いつもハッピーだったからです。なんでそんなに笑顔なのだろうかと思っていました。先生によると、資本主義のカナダも日本もお金優先の社会かもしれないけれども、『メキシコは違う』と言うのです。『貧乏だけど、メキシコ人にとって家族が一番だから、家族が幸せであればハッピーなんだ』と言っていました。本当に毎日笑顔だったので、この先生が生まれ育ったメキシコに行きたいなと思いました」
――当時のメキシコは麻薬やマフィアといった印象が強い。
「そうですね。そんな時代でしたね。メキシコ市に行ったのですけど、そのときちょうど麻薬の密輸に絡むマフィアの抗争で騒乱状態でした。通学などの外出時は防弾チョッキを着ていました。車は防弾ガラスです。命について深く考えるきっかけになりました」
――想像していたメキシコとのギャップは?
「すごくありました。貧富の差も激しかった。当時、交換留学で通っていた学校は私立で恵まれた教育を受けることができ、ガードマンもいました。でも、一歩外に出ると違う。ほかの高校に通う、貧しい家の生徒たちは、給食のご飯を自分で食べずにプラスチックの食品保存容器に詰めて持ち帰る。家族のためです。教育って何なのか、すごく考えさせられました」
「マフィアの抗争で危ない目に遭いかねない住環境だったんですけど、メキシコでは各家庭が週に何回か、兄弟姉妹や大切にしている人を連れてきてバーベキューのような食事の集まりを開きます。メキシコ人は、陽気で自由気ままに生きている人が多いとの印象があるかもしれませんが、実は働き者が多いことを知りました。朝の4時とか5時に起きて出かける人に『何でそんなに働くの?』と聞くと、やはり『家族のため』って言うんですよ」
東日本大震災を契機に日本へ
メキシコ留学中に母親から、父親が末期がんと知らされた。手術を受けるのだという。父親は毎月船便で、近況を知らせる手紙とともに日本の漫画や大好きなお菓子を送ってくれていた。「会えるのはこれが最後かもしれない」と覚悟して成田空港に到着したのは、2011年3月11日。高校2年生だった。東日本大震災が発生して公共交通機関は動かず、この日は足止めされた。
翌日、ヒッチハイクをして父親が入院する病院を目指す。車に乗せてくれた年配の女性に「メキシコだったら知らない人の車に乗ることができる?」「戦争で焼け野原になった日本が、どうして平和で安心安全な経済大国になったか知っている?」と聞かれたが、平原さんはうまく答えることができなかったという。「日本のことをもっと知り、教育を変えたいとの思いを強くしました」と振り返る。
病院まで送り届けてもらい、父親と再会することができた。「留学中、自分を支えてくれている家族のことをもちろん考えていました。でも、自分のことで精いっぱい。帰国して家族の大切さを実感しました。そして家族だけじゃなく、周りの人たちみんなに恩返ししたいと思うようになっていました」と平原さん。
12年に早稲田大国際教養学部に入学した。在学中にスペインに留学している。16年に卒業後、米医薬品大手ジョンソン・エンド・ジョンソンの日本法人などを経て、19年、SDGsを軸に教育事業を手がける「WORLDROAD株式会社」を共同設立した。この時、25歳。これまでの留学経験を生かして「地球を一つの学校にする」をミッションに掲げた。
世界201カ国の若手リーダーらの夢をまとめた書籍「WEHAVEADREAM201カ国202人の夢×SDGs」を出版し、この本に登場する人たちと国内の教育現場をオンラインでつないできた。22年には、「社会の境界線を溶かす」を目的に「HI(ハイ)合同会社」を設立。学生と企業が一緒になって社会課題を解決するプロジェクトを展開し、性別、国籍、宗教、障害の有無などに関係なく生きられる世界の実現を目指す。
教育を軸とした社会起業家として、数々のインタビューを受けてきた平原さんだが、その基底にあるのは、平和への思いだという。21年のピースデーのイベントで一般財団法人「PEACE DAY」の井上高志代表理事と対談したことがきっかけとなり、22年から同財団の理事に就任した。平和な世界をどう築けばいいのか聞くと、こんな答えが返ってきた。
「アフリカのケニアの子どもたちに『日本は盆栽そのものだよね』と言われたことがあります。『どういうこと?』って聞くと、『同じように見えるけれども、いろんな人がいて、お互いを尊重し合っている。国が繁栄しても殺し合いをしない』と言うんです。アフリカでは、経済が成長すると、殺し合いに発展する国がある。私は世界中の誰もが『心の平和』を持てるように、と思っています。大切なのは対話。そして、広島、長崎で被爆した人の体験を子や孫の世代が語り継いでいるように、戦争を体験した当事者の言葉を受け継ぎ、彼らが目にした景色をいかに次世代に伝えるかが大事だと思っています」【沢田石洋史】
=次回は10日掲載予定
平原依文(ひらはら・いぶん)
小学2年生から単身で中国、カナダ、メキシコ、スペインに留学。東日本大震災をきっかけに帰国し、早稲田大学国際教養学部に入学。新卒でジョンソン・エンド・ジョンソンに入社し、組織開発コンサルティング会社に転職。2019年、「地球を一つの学校にする」をミッションに掲げる「WORLDROAD株式会社」を設立。フォーブスジャパンの21年度「今年の顔100人」に選出。22年に「社会の境界線を溶かす」を実現するため「HI合同会社」を設立。青年版ダボス会議OneYoungWorld日本代表・アドバイザー、教育未来創造会議(内閣官房)のメンバー。