/13 食料探し力尽きた 戦闘ではなく飢え死にだった現地の惨状
1945(昭和20)年5月、伊藤清六ら神州毎日の15人は陥落目前のイポを脱し、兵団の備蓄拠点「十三の谷」を目指した。1週間かけてたどり着くと、育っているはずの…
太平洋戦争末期、フィリピンの洞窟でガリ版刷りの新聞が発行されていました。取材を担った伊藤清六を親族の記者が追います。
1945(昭和20)年5月、伊藤清六ら神州毎日の15人は陥落目前のイポを脱し、兵団の備蓄拠点「十三の谷」を目指した。1週間かけてたどり着くと、育っているはずの…
マニラ新聞社を脱出した伊藤清六らは新たな拠点を求め、ルソン中南部を守る軍司令部へ向かった。米軍の進撃は予想以上に早く、確保した拠点を使えず軍に頼るしかなかった…
17歳で郷里の岩手を離れてから約20年間、伊藤清六は父親代わりだった長兄清一に頻繁に手紙を送っている。生家には60通近い手紙が残る。マニラが緊迫した1944(…
1944(昭和19)年6月、伊藤清六は順調なマニラ生活を送っていた。岩手の長兄清一に手紙で「渡比以来早や一カ月になりますが、軍の最高首脳部やラウレル大統領に会…
岩手の農村で苦学し、東京日日新聞(現毎日新聞)で農政記者となった伊藤清六。「搾取なき社会」を理想としたが、日中戦争で軍と一体化した報道を担う。帰国から6年、次…
1938(昭和13)年7月1日、伊藤清六は東京日日新聞(現毎日新聞)の正社員に登用された。44年にフィリピンに出向するまでの約6年間、専門だった農政分野で筆を…
今日は特別な日なのか。2019年夏、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に向かっていた私は最寄りの地下鉄駅を出て驚いた。休日とはいえ館の前の広場は入り口が見え…
2019年夏、私は南京を訪れ、市内に残る中華門に向かった。東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員だった伊藤清六が従軍した第10軍第114師団が突入した門だ。 幅1…
上海の観光地として名高い外灘(ワイタン)の北側、虹口地区の日本人街に、毎日新聞の前身である東京日日新聞と大阪毎日新聞の上海支局があった。1937(昭和12)年…
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