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過疎化進む国境の島 与那国舞台に2映画作品 島への深い愛情込めて
2022/5/14 13:57 1791文字沖縄の本土復帰50年を記念し、日本最西端の沖縄県・与那国島を舞台にした映画2作品が上映されている。島で育った東盛あいか監督(24)が与那国の伝統文化や日常を幻想的に描いた作品「ばちらぬん」と、イタリア出身の2人が島を旅立つ若者たちの姿などを追ったドキュメンタリー作品「ヨナグニ~旅立ちの島~」だ。異
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宮古、八重山に公共放送開局、台湾にはテレビ番組編成ノウハウ伝え
2022/3/23 14:00 5413文字沖縄でラジオ放送を運営していた琉球放送(RBC)は1960年、テレビ放送を開始した。実はその免許取得は難航した。沖縄は米占領下にあり、琉球列島米国民政府(略称・USCAR=ユースカー)が、なかなか認めなかったからだ。 そこでRBCは、川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(94)が米国の大学院で書いた
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米が直接統治強め 「キャラウェイ旋風」 吹き荒れる
2022/3/9 14:00 5397文字日本の主権回復から3日後の1952年5月1日、沖縄で戦後初のメーデーが開かれた。日本から切り離された沖縄は米占領下にあり、琉球列島米国民政府(略称・USCAR=ユースカー)は沖縄の動向を警戒した。 那覇のメーデー会場に約300人が集まった。主催はカメジローと呼ばれた瀬長亀次郎が率いた人民党だ。亀次
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戦後の沖縄で初めて米国人女性と結婚、息子3人生まれ
2022/2/16 14:00 5330文字沖縄のラジオ局でアナウンサーだった川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(94)が留学した米国は1950年代、テレビ隆盛期にあった。 留学先のミシガン州立大ラジオ・テレビ・ドラマ学科の学生たちは、ニューヨークに飛んで本場のミュージカルを巡り、米NBCやCBSのテレビ放送を見学した。 朝清さんは沖縄に戻
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本格的に放送の道歩む NHKアナウンサー研修、さらに米国留学
2022/2/2 14:00 5349文字沖縄を占領した米軍政府は1950年、琉球列島米国民政府(略称・USCAR=ユースカー)となり、軍政から民政に変わったが、実態は軍事占領の継続だった。 沖縄のラジオ局AKARでアナウンサーになった川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(94)は、本格的に放送の道を歩み始めた。東京のNHKにアナウンサー養
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台北での経験生かし、戦後のラジオ放送黎明期を支えた兄弟
2022/1/19 14:00 5640文字戦後の沖縄は、琉球列島米国軍政府の下に沖縄住民側の沖縄民政府があり、二重構造だった。民政府芸術課長の川平朝申(かびら・ちょうしん)さんは「娯楽と情報と教育の面でラジオほどいいものはない」とラジオ局開設を説いて回った。台北放送局で番組を手がけた経験がある朝申さんは、その必要性と魅力を知り尽くしていた
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台湾から引き揚げ船、降り立った占領下の沖縄 「復興に役立ちたい」
2022/1/5 14:00 4998文字川平(かびら)一家9人を乗せた台湾からの引き揚げ船が1946年12月18日、米軍占領下の沖縄・久場崎港に到着した。台湾で生まれた当時19歳の四男・朝清(ちょうせい)さん(94)は、沖縄を見るのは初めてだった。 「国破れて山河ありというけれど、山河も残らなかったわね」。米軍の艦砲射撃でえぐられた山肌
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台湾と深くかかわった「カール先生」、2・28事件も目撃
2021/12/15 14:00 5263文字1945年の敗戦後、台湾にいた沖縄出身者たちでつくる「台湾沖縄同郷会連合会」は、沖縄の琉球列島米国軍政府に早期引き揚げを求め続けていた。そんな折、軍政府で要職にあったローレンス少佐が台北を訪れた。 少佐は連合会にもやってきた。事務局は南風原朝保(はえばる・ちょうほ)副会長が営む南風原医院の2階にあ
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引き揚げ業務、知られざる「琉球官兵」たちの活躍
2021/12/1 14:00 4546文字台湾からの日本人の引き揚げで乗船作業などを担ったのが、沖縄出身の兵士たちだということは、あまり知られていない。彼らは「琉球官兵」と呼ばれるようになった。 敗戦後の1945年12月、台湾各地の部隊に所属していた沖縄出身軍人・軍属は北部・基隆と新竹に集結した。同月末から、旧日本軍人らの送還が始まっても
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技術継承のため留用された日本人 教員や僧侶、牧師も
2021/11/17 14:00 4103文字敗戦翌年の1946年3月に台北高等学校高等科を卒業した18歳の川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(94)は、台北の日本人による互助組織「台北日僑(にっきょう)互助会」で働き始めた。日本人の引き揚げが始まっていたにもかかわらず就職したのは、沖縄出身者の沖縄への引き揚げ時期が見通せなかったからだ。 中
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沖縄出身者は「琉僑」と区別され、日本人引き揚げ後も台湾に
2021/10/27 14:00 5043文字1946年2月、台湾から一般の日本人の引き揚げが始まったものの、そこに沖縄出身者は含まれなかった。沖縄は米軍に占領されて日本の施政権が及ばず、沖縄出身者の沖縄への帰還は許されていなかったからだ。 台湾を接収した中華民国は、台湾にいる日本人を中国の華僑になぞらえて「日僑(にっきょう)」と呼ぶ一方、沖
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接収された台高、その前日付で発行された卒業証書
2021/10/13 14:00 4475文字1945年の敗戦後、中華民国に接収された台湾の人口は約650万人。このうち日本人は約32万人で、「日僑(にっきょう)」と呼ばれるようになる。華僑になぞらえた中華民国側の言い方だった。 敗戦直後は、台湾に残りたいと考える日本人が多かった。戦争末期にソ連軍が満州(現中国東北部)に侵攻するなど、他の外地
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敗戦直前、将校を速成する特甲幹に「志願」
2021/9/15 14:00 4882文字戦争末期、沖縄から台湾への疎開が始まった。 サイパンが米軍の攻撃で陥落した1944年7月、政府は沖縄県などから高齢者や女性、子どもの疎開を決定した。沖縄が次の侵攻目標になる恐れがあった。兵力10万人が沖縄に配備されつつある中、軍への食糧確保や防衛の「足手まとい」になる住民を県外に出そうという意図も
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家族を奪った台湾大空襲 「台北市はまるで死の城に」
2021/9/2 11:42 4782文字太平洋戦争末期の1945年5月31日午前10時ごろ、日本統治下の台北市内に空襲警報のサイレンが鳴り響いた。フィリピン・ルソン島から100機を超す米軍のB24爆撃機が飛来し、台北に猛攻撃をかけた。 台北高等学校高等科2年生で陸軍2等兵となった川平朝清(かびらちょうせい)さん(94)は同市南端の練兵場
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戦争末期、訓練に明け暮れた日々 台高の教室、学生寮が兵舎に
2021/8/18 14:00 4403文字太平洋戦争末期の1945年3月、台北高等学校の生徒たちは「警備召集」の名目で陸軍2等兵になった。米軍が日本本土への侵攻を前に、台湾か沖縄に上陸すると予測していた日本は、台湾と沖縄の防衛をいっそう強化。このため台湾では旧制中学3年生以上の男子生徒が召集された。 台高では高等科3年生が既に繰り上げ卒業
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戦時体制で理科教育拡充も 人気集めた「万葉集」の授業
2021/8/4 15:47 4783文字戦時下の1944年4月、川平朝清(かびらちょうせい)さん(93)は台北高等学校尋常科から高等科に進学し医師を志すようになった。父・朝平(ちょうへい)さんに強く勧められた。尋常科で文芸部に所属し、文系にひかれていたが、朝平さんに「森鷗外、斎藤茂吉を見よ。2人とも医師であり、立派な文学者ではないか」と
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日本化が強まる戦時下、独自の英語教育守った台高
2021/7/21 14:20 4807文字川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(93)の人生に大きな影響を及ぼした英語。学び始めたのは1940年、台北高等学校尋常科だ。1年生時の担任でもあった英語の山地清教授に1年間、正確な発音を徹底的にたたき込まれた。朝清さんは「おかげで英語の発音記号を見て発音するくせがつきましたね」と語る。 ◇正確な発
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台湾での青春を象徴した回覧雑誌「雲葉」
2021/7/7 14:00 4894文字日本統治時代の台北市にあった台北高等学校(台高、尋常科と高等科の7年制)で、青春を謳歌(おうか)していた生徒たちは創作意欲が盛んだった。高等科の生徒や教授が寄稿した文芸誌「台高」「翔風」が出版され、校内のみならず他校にも配布された。1930年代以降はやや下火になったものの、その後も学級誌などが次々
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生徒の自主性重んじる校風 個性的な面々が多かった台高
2021/6/23 14:00 4829文字川平朝清(かびらちょうせい)さん(93)が通った日本統治時代の台北高等学校(台高)は「自由と自治」を尊ぶ校風で、生徒たちは上下の隔てなく「君」付けで呼び合った。38校あった旧制高校の一つで、珍しい中高一貫7年制(尋常科4年、高等科3年)の男子校だった。教える側も一流。欧米留学を経験した教授もいた。
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台湾一の難関「台北高等学校尋常科」への進学目指し
2021/6/9 14:00 4457文字1939年、台北市の旭小学校6年生になった川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(93)は、台湾一の難関と言われた台北高等学校尋常科への進学を志した。中高一貫7年制(尋常科4年、高等科3年)の男子校で、旧制中学に相当する尋常科は定員わずか40人の狭き門だった。 日本統治時代の台湾で日本人は小学校、台湾
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